君と僕の12ヶ月 1

 

 西浦高校第2グラウンドに降り注ぐ春先の日差しは、暖かさよりも暑さをその下で動き回る少年たちにもたらしているようだった。夜明けとほとんど同時に動き出した彼らのすっかり目覚めた体は朝練が終わってグラウンド整備に入る頃には一様に汗だくだ。

 丹念にトンボをかける野手から離れたブルペンでバッテリーはクールダウンをしている。ことさら念入りに長い時間をかけて投手の肩を気遣う捕手と、それを見守る部員の様子はここ1年で練習の終わりの日常風景となっていた。

 

「暑っちいねえ」

 

内野をトンボで整備していた栄口は右手を離して帽子を取って、腕で額の汗を拭う。隣にいた泉も同じような動作をしていた。

 

「これでまだ4月だっつーんだから先が思いやられるよな」

「ほんとになあ」

 

などとにこやかに2人が言葉を交わしていると、そう遠くは無い場所で怒号が上がった。

 

「だからビクビクすんなっつってんだろ!」

「ごごご、ごめっなさっ」

 

驚いて顔をブルペンに向ける栄口と、呆れたように同じ方向を見る泉の目に映るのは西浦高校の正捕手とエースのあまりにも見慣れた光景だった。

 正捕手とエースと言っても、部員数が10人の西浦野球部の捕手と投手は彼らしかいないのだが、その阿部と三橋の間では1年を経た今も毎日のように同じようなやりとりが繰り返されている。

 

「相変わらずだねえ」

 

立ち上がって怒鳴りつける阿部から少し離れた場所にいる三橋は小柄な体を一層縮こまらせてびくびくと体を震わせ、キョロキョロと目をあちらこちらへと動かしている。

 定位置から動き出さんばかりの阿部の剣幕に心底怯えている三橋の様子に、栄口はどうかその距離を保ってやってくれよと心の中で阿部に願わずにいられない。内野まで大きく響くほどの声量を至近距離で向けられてしまったら三橋の心臓は持たないだろう。そう考えると、バッテリーの間にある距離は正しく2人の間で機能していると言えるかもしれなかった。

 

 グラウンドにいる西浦野球部全員がその光景を遠巻きに見守るが、動こうとする者はいなかった。介入した方がいい時と、そうでない時を1年間のうちに彼らは学んできている。第一に、バッテリーの仲介役である栄口が動かない以上は動くべきではないのだと皆が判断していることを当人である栄口以外の全員が知っていた。

 

 やがて、びくつきながらも懸命に応えようとする三橋の姿勢に阿部の怒りも沈静化したのか、2人の間に和やかとはお世辞にも言えないまでも、一応は落ち着いた雰囲気が流れはじめ、阿部がようやく腰を下ろした。ミットを構えた相手に三橋が再び投球をはじめる。

 ほっ、と胸を撫で下ろすため息が野手陣から漏れて、再びグラウンドは穏やかな空気を取り戻した。

 

「大丈夫だったみたいだね」

 

内心どきどきしながら彼らを伺っていた栄口が隣の泉に笑いかけると、

 

「阿部うっぜー!」

 

わざと辛辣な口調で顔をしかめて泉が言うので、噴き出してしまう。泉が、三橋を弟を見るように思いやっていることを知っている栄口は否定も肯定もせずに再びトンボを押し始める。

 

「とりあえず、1年の前ではほどほどにするように阿部には言っておくよ」

「頼むぜ副キャプテン」

 

ぽんぽんと泉は栄口の肩をたたいて、1年と言えば、と話の矛先を変えた。バッテリーの話には一応ケリがついたらしい。

 

「今年の1年、結構入りそうなんだってな」

「そうだね。見学に来てる子の中で見込みがありそうなのが10人ちょっと。正式入部期間まではまだあるからもう少し入るんじゃないかな」

「部活紹介栄口も出んだろ?」

「うん。オレと花井と阿部で出るよ」

「阿部もかよ!」

 

可愛い顔を豪快に崩す泉に栄口はまた噴き出す。西浦野球部の中で阿部に対してここまで遠慮のない物言いが出来るのは彼と田島くらいだと内心思っている栄口だ。けれど栄口は、その見た目を裏切る泉の豪胆な性格をとても好ましく思っている。

 

「じゃあ阿部の代わりに泉出る?泉格好いいから可愛い女子マネ入ってくれるかもよ」

「はァ?」

 

からかうように相手を見遣ると、泉は一瞬面食らったような顔をして、そうしてすぐに心底呆れたとでも言いたげに肩を竦めた。

 

「やなこった」

 

一言、きっぱりと言い切る泉らしい発言に栄口が清清しささえ感じていた、そのとき。

 

「栄口先輩!」

 

よく通る声が、西浦高校第2グラウンドに響き渡った。

 

 栄口を含めたグラウンド上にいた全員が声がした方を振り返る。整とんされたベンチの後方にあるフェンスの後ろで何者かが大きく手を振っているのが目に入る。気づいた篠岡が彼らを招き入れる様子を、呼ばれた栄口だけでなく部員全員がなんだなんだと眺めていた。

 栄口はことさら注意深く、現れた2人の少年を遠目に見遣る。その1人がこちらを向いて、帽子を外して頭を下げた。

 

 同時に、栄口は驚いたように声を上げた。

 

「ヨシ!」

 

名前を呼ぶと彼は嬉しそうに手を振ってくる。それに手を振り返しながらトンボ片手に花井の姿を探した。外野の方で球拾いをしていた目当ての男は、栄口の様子に気づいて内野側まで走って来てくれた。

 

「シニアの後輩か?」

「うん、そう。多分見学だと思う。ちょっと行ってきてもいいかな」

「おう、トンボ貸せよ。代わりにやっとくからさ」

「サンキュ」

「2人とも後輩なのか?」

 

花井にトンボを手渡す横でそう聞いてきたのは泉だ。栄口は一度、ベンチ横で篠岡になにやら説明してもらっている2人を見た。

 1人は間違いなく見覚えがある。背が少し伸びたただろうか。短く刈り上げられた髪は昔のままだ。マネージャーの説明にいちいち笑顔で頷いている姿が相変わらず可愛らしい。

 栄口は嬉しくなりながらすぐに泉を振り返って首を振った。

 

「ええと、今帽子取ってる方がシニアの後輩。もう1人はオレも知らない」

「ふぅん」

「中学の同級生かなんかだろ、ホラさっさと行ってこい!」

「うん、すぐ戻るよー!」

 

花井にせっつかれて栄口は走り出す。その背中ではキャプテンが皆に作業に戻るように指示を出していた。

 

「ヨシ!久しぶり!西浦に来たなんて知らなかったよ?」

 

栄口は、近づいた自分に「しゃっす!」と元気のいい声で再び頭を下げてきた後輩の変わらない雰囲気を嬉しく思いながら声をかけた。すると彼は大きな目を嬉しそうに細めて照れたように頬を掻いた。

 

「へへ、驚かせようと思って黙ってたんです」

「ビックリしたよ〜。ヨシは私立に行くもんだと思ってたからさ」

「あ、先輩ヒドイっす。それはオレが馬鹿なの知ってて敢えて言ってるんスね?」

「あはは、相変わらず勉強苦手なんだ。よく西浦受かったな〜」

「ひどいっす!オレ頑張ったんスよ!」

「うん、だからおめでとう」

 

彼の頑張りを思って、心を込めて言うと、目の前の自分よりも少し大きな後輩は人懐っこい顔に笑顔を浮かべるので栄口まで嬉しくなってしまう。

 

 彼、小松義孝と栄口はシニア時代の先輩後輩という間柄だ。栄口が所属していたチームは上下の規律こそあれど全体的に仲が良く、栄口と小松も先輩後輩という関係ではあったけれども互いに気のおけない、いい関係を築いていた。

 人懐っこく、明るい小松の気性を栄口は好ましく思っていたし、穏やかだけれど芯の強い栄口を小松は尊敬し、慕っていた。

 勉強の苦手な小松に練習帰りに宿題を見てやったことも1度や2度ではない。しかし栄口が卒業と同時にシニアを辞めてからは、学区が違う彼らが会う機会という機会はなくて、連絡もとらずじまいになっていたのだった。

 

 だから栄口は余計に嬉しかった。

 久しぶりに会った彼が、あの頃のまま自分に接してくれることが。また一緒に野球が出来ることが。

 

 暖かいものが胸の中に広がるのを感じながら栄口は小松の隣に立つ少年に顔を向けた。

 

「あ、先輩、こいつオレと同中なんスけど、こいつも別のシニアでやってたんスよ。見学したいって言うから連れて来ました」

 

それに気づいた小松が口早に紹介をしてくれる。葛西武人、という名の彼は後輩とは対称的に、クールな印象のある少年だった。泉よりは短いかというくらいの黒髪に切れ長の目。栄口より10センチは高いと思われる長身にのる小さな顔はややきつめだが、女子にはさぞかし騒がれるだろうと思わせるくらいには整っている。

 

 栄口が驚いたのは、彼の出身チームを聞いたときだ。

 それは栄口たちのいたブロックで1、2を争う強豪だった。しかも小松曰く、彼はそこの2番手ピッチャーを努めていたらしい。素直に「すごいね」と感嘆を漏らした栄口に彼は会釈ひとつで応対した。どこまでもクールな反応に栄口は少しだけ面食らってしまう。

 

「よろしくお願いします」

 

小松があらかた説明を終えると、彼は帽子を脱いで頭を下げた。

 

「よろしくー」

 

笑顔で返しながら、声だけはどこか少年ぽさが抜けていない感じがしてなんだかそこを少し可愛いな、なんて思ってしまう。

 

「じゃあさ、とりあえず適当に見て行ってよ。帰るときだけ声かけてもらってもいい?」

「分かりました!」

 

小松の元気の良い返事に頷いて栄口は内野に戻るべく身を翻した。そのとき、彼は気づく。

 

 シニアの強豪でプレイしていたというピッチャー志望の新1年は、じっ、とブルペンでクールダウンをしているバッテリーを見つめていた。