遠い水面−みなも− 前編

 

 ああ、まただ。

 

 頬杖をつきながらカチカチとシャーペンの頭を手持ち無沙汰に何度も押す水谷の視線の先には栄口がいる。わざわざ1組の教室までやって来て次の古典のノートを写させてもらっているのに、栄口が別の事に集中しているのを良いことに彼を凝視していたりする水谷だ。

 

 「お願い!」と両手を合わせる水谷に、小言を並べながらも栄口はいつも引き出しの中から彼らしい、ラクガキも汚れもない綺麗なノートを取り出してくれる。写させるだけで貸さないのは友人のためを思ってのことだ。彼のそういう優しさが水谷は嬉しい。

 嬉しくて、会いたくて、いつも古典の時間は彼のことを考えて、こうやって次の時間が来る前に1組にやってきて写させてもらう。

 

 それはほとんど日常となっていて彼の前の席の女子などは水谷が来るたびに席を空けてくれるようになった。栄口は心底呆れた顔をして、でも結局、引き出しに手をのばしてくれる。

 

 そんな水谷にとって至福の時間が脆くも崩れたのは最近のことだ。

 

 俯き加減でメールを打つ目の前の相手をじっと見つめる。集中している栄口は水谷が手の動きを止めたことにも気づかないで親指をしきりに動かしている。小さな長方形の表面を忙しなく行き来する指がこちら側から見えないのは幸いかもしれないかった。

 

 顔を見れば、その相手は予測するまでもない。

 

 栄口を、栄口だけを常日頃から良く見ている水谷は彼の表情の変化にひどく敏感だ。だからすぐに気がついた。

 栄口はよく笑う。そしてその笑顔は等しく万人に向けられている、そう水谷は思っていた。けれど、違ったのだ。

 

 ヴヴン、と不意に音が上がる。

 まさしく栄口のその携帯が彼の手の中で振動して音を立てていた。チカチカと着信を告げる光が目障りだった。

 

 栄口は驚いたようにくりっとした目を見開いて、けれどすぐに頬を緩ませてひどく嬉しそうに笑った。

 

 ――――――ああ、またそのカオ。

 

 じいっと自分を見つめている視線に気づくことなく栄口は携帯電話を耳にあてがった。

 

「阿部?」

 

男にしては少し高めの声が一際嬉しそうに紡いだ名前は、少しも予想と違わなくて、水谷は見ていられなくて目を逸らす。彼が電話に夢中なのはある意味では幸いかもしれない。自分が今、見るに耐えない表情をしているだろう自覚が水谷にはあった。

 

「え?水谷?うん、いるよ」

 

しばらくして栄口の声で名前を呼ばれてつい、顔を戻してしまった。目があって、嬉しさとも後悔ともつかない感情が湧き上がって混乱する。そんな水谷の心境を知る由もない栄口は、こちらを見てハイ、と携帯電話を差し出してきた。

 

「え」

「阿部。代われってさ」

「……」

 

躊躇する間もなく手渡されてしぶしぶと耳に運んだ。通話口は彼の体温が残っているせいかあたたかく、そんな場合じゃないのに妙に鼓動が早まって、焦った。

 

「は、ハイ」

『そろそろ戻ってこねーと次移動教室だぞ』

「え?!あ、そうだったっけ!」

『時間割くらい把握しとけ』

「ゴメン、すぐ行くよ〜」

『遅かったら置いて行くからな』

「ヒドッ!」

『てめェ、電話してやっただけありがたいと思え』

「す、すみません。ありがとうございます…」

『早くしろよ。じゃあ栄口に代わって』

「………」

 

手渡されたときと同じように、しぶしぶと持ち主に携帯を返す水谷の耳になぜだか阿部の最後の一言が残った。

 

「阿部、お前また何か言ったの?水谷泣きそうなんだけど」

「!な、泣きそうじゃない!」

 

断固否定する水谷をハイハイ、とあしらう栄口は相変わらず電話の相手に夢中だ。少しばかりこちらを見て悪戯っ子のように笑ったのちは通話口の先にいる相手に意識の全てを持っていかれているようで、ちっとも顔をあげてくれない。

 

(こっち見ろ)

 

「え?な、っば、ッカじゃないの!」

 

水谷の願いが叶ったのかそうでないのか、唐突に慌てふためき出した栄口は、ちら、と一瞬こちらを見てけれどすぐさま目を逸らした。心なしか目じりが赤く染まっているような気がする。

 いぶかしむ水谷だけれど声をかける前に「切るよ!」とやけに潔く彼は宣言してその通り通話を終了してしまった。

 

「どうしたの?」

「え?ああ、なんでもないよ。阿部が馬鹿なこと言っただけ。ホラ、水谷は早く戻ったほうがいいんじゃない?7組は古典午後だよね。また昼休みにでも来なよ」

 

その馬鹿なこととやらの内容が心底聞きたい水谷だったけれど、さすがに口には出来なかった。未練タラタラながら、栄口の方から昼休みの約束を取り付けてくれたことで良しとしよう、と水谷は椅子から立ち上がる。

 

「じゃあまた昼休みね栄口!」

「うん、急げよ〜」

 

ひらひらと手を振り合って、水谷は1組を後にして、栄口は次の授業の準備を始める。時限が近づいた室内には1組の生徒がぞくぞくと戻り始めていた。

 

「あ、巣山」

 

購買に行っていた巣山がパンを抱えてドアをくぐって来たのを目に認めて栄口は声をかけた。気づいた相手は席に戻りがてら栄口の席で足を止める。

 

「今日の昼水谷来るって」

「またかよ」

「古典写すんだってさ」

「あいつテスト大丈夫かあ〜?」

 

赤点取ったらシャレになンねえぞ、と渋面をつくる巣山に栄口も同意の意味を込めて深く頷いた。

 

「まあそのときはまたみんなで勉強会だな」

「どっちにしろ勉強会はやるんだろうけどな」

 

巣山の目が少しだけ遠くを見ているのはきっと、9組に意識が飛んでいるからなのだろう。水谷なんて目じゃない、西浦野球部の問題児ツートップがいる方向に。

 

「栄口、携帯光ってる」

「あ、ほんとだ」

 

巣山の意識を引き戻したのは机の上に無造作に置かれた携帯電話の受信ランプだった。開いて中を見ると、受信メール1件という表示が目に飛び込んでくる。

 

「………あー、」

 

それを読んだ栄口がまだ席を離れていなかった巣山を困ったように見上げると、どうした、という表情が返ってくる。気遣わしげな巣山と携帯の画面を何度か交互に見て、彼は、頼れる坊主頭に手を合わせた。

 

「悪ぃ巣山、ちょっと頼まれてくんね?」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 え、と驚きを隠せない水谷に巣山はぽりぽりと頬を掻いて再び説明する。

 

「だから栄口、用事入っちまったらしくてさ、お前にコレ見せるよう頼まれた」

「………」

 

差し出されたノートを前に水谷は完全に硬直する。古典、1−1、栄口勇人。黒の油性ペンで丁寧に書かれた文字の羅列を呆然と眺めた。

 それまで耳に入ってきていた1組の喧騒や、目の前でノートを差し出している巣山の声が一気に遠のいていく。今、水谷の前には栄口のノートだけがその存在を主張していた。

 

「………阿部?」

 

口をついて出た名前に自分が一番驚いた。けれど言葉にした途端、彼の中の直感のようなものがそれしかないと伝えてくる。既に確信だった。栄口は今、阿部と一緒にいる。

 

「阿部がどうかしたのか?」

「栄口、どこに行くって言ってた?」

 

巣山の手から栄口のノートを受け取って、問いには答えずに逆に聞き返す。相手は不思議そうな顔をしたけれど特に水谷の行動の不可解さに言及したりはせずに、さあ、と首を傾げた。

 

「そこまではわかんねえ。ただ、お前にそれ渡しといてって言われただけだからなあ。あ、でも図書室に返す本持ってたからそこかもな」

 

図書室。水谷はその場所をインプットする。

 

「巣山ありがと!」

「お〜」

 

受け取ったものを胸に抱き締めて椅子と机を器用に避けて走り出す。ドアの付近で一度立ち止まって左右を見回した。図書室ってどこだっけ、と肝心なことを考えるけれど、その時間すらもったいない。

 

 なるようになれ!と右に方向転換して廊下をダッシュする。何をこんなに焦っているのか自分でも分からない。分かるようで分からない。ただ、阿部と栄口が今一緒にいるのだろうと思うと居てもたってもいられなかった。他の誰でもない、阿部というキーワードが。

 

『あの2人ってさァ…、なァんか親密だよねェ』

 

あのとき泉に対して言った、自分の言葉を水谷は思い出す。実際彼らは同じ部員で同じ役職についているという肩書き以上に親しくしていると部の誰もが認めていた。

 

『あいつら同中だしな』

 

泉はそう返したけれど。

 

 でも、本当にそうか?

 本当にそれだけか?

 

 水谷は速度を上げる。確かめたい、と強く思う。彼らの親密さは、そんな言葉では片付けられるものではない気がする。

 

 事実に行き着いたときどうするかなどということはこのときの水谷の頭にはなかった。ただ、栄口が阿部に対してだけ見せる表情だとか、行動だとかの理由を知りたくて知りたくて仕方がなくて、がむしゃらに一直線に伸びるコンクリートの床をひた走った。