遠い水面−みなも− 後編

 

 こういうときに役に立つのは記憶力よりも勘で、水谷は特に後者が優れているタイプの人間だった。1年1組を飛び出して人のいないほうへいないほうへと走り出したのはまさしく直感としか言いようがない。

 1年のクラスが並ぶ階の階段を一足飛びで駆け降りて渡り廊下を使って特別錬へと向かう。昼時の特別錬はいつも人がまばらでその中におそらくあるだろう図書室ともなれば、下手したら司書教諭と図書委員くらいしかいないかもしれない。テスト前でもない今の時期、図書室を使う人間が多くいるとは思えなかった。

 

 それは、今の栄口と阿部がいる場所として相応しい気がする。

 

 そう感じてしまう度に胸がざわついてほとんどもつれるような状態で水谷は足を交互に動かしていた。息が上がる。こめかみから流れ出た汗が顎を伝って首筋へと流れていく。

 

 名ばかりの初夏が過ぎて訪れた今年の夏はとても暑い。お天気お姉さんが今年は酷暑になるでしょう、と先日のニュースで言っていたことを水谷は頭の隅に思い出す。暑い、でも加減出来ない。渡り廊下を流れる風よりも水谷の風を切って走る速度の方が勝っていた。

 

 開け放たれている校舎の入り口で一度ピタリと止まって、小刻みに上下していた肩を押しとどめるように大きく深呼吸した。吸って、吐く。そんな動作ひとつで気持ちが少しは落ち着く心地がするから不思議なものだ。

 

 意を決して廊下に踏み入れて前を見ると一番奥に「図書室」と書かれた表札を見つけた。階段を上り下りしなくていいことに誰にともなく感謝しながら、全力疾走してきた先ほどとは逆に水谷は一歩一歩踏みしめるように廊下を真っ直ぐに歩き始めた。動いた拍子にこめかみと首筋をまた、汗が流れていった。

 

 図書室の引き戸をそろそろと引くと、一気に冷気が火照った体を包み込んできた。その気持ちよさに誘われるように足を踏み入れて後ろ手で扉を閉めればそこは、室外とはまるで別の空間といっていいほど静謐な空気に満ちていた。

 外の暑さを忘れるほどの涼しさに、荒さの残っていた息遣いが自然とおさまっていく。

 

 カウンターに座っていた年配の司書教諭に軽く会釈をして水谷はいくつも並ぶ大きな棚をなるべく静かにすり抜ける。途中、閲覧席の方に寄り道して2人がいないことを確認した。整然と並べられた机と椅子にちらほらと座っているのは見慣れない男女ばかりだ。水谷は妙にほっとして本の海へと舞い戻り探索を開始した。図書室の中はやはり人が少なくて、しばらく歩いてもほとんど人にすれ違わなかった。

 

(……図書室なんか来るの、テスト前以来だな)

 

中間テストの前にみんなで図書室に集まって勉強したときのことを思い出す。栄口は、古典が特別苦手な水谷のほとんど専属家庭教師のような形で丁寧に丁寧に教えてくれた。栄口の教え方は分かりやすくて根気強くて、結果として中間では平均点以上を取ることが出来てとても感謝したのを覚えている。

 あのときはまだ彼のことを特別視してはいなかったけれど、それでも人当たりの良い栄口に好感は抱いていた。いいやつだなあ、と何度も思った覚えがある。今思えばきっとそれが始まりだったのだろう。

 

 頭の中で過去を垣間見ながら水谷の視線はキョロキョロと左右に向けられていた。自然化学系、語学系、歴史系……といった具合に、本棚の中の本たちは種類ごとに分けられている。

 巣山は栄口が本を返すと言ったと言っていたから、彼の好きな古典の読み物の列を探しているのだった。

 

 四方に並べられてた様々な大きさの背表紙を見たり、棚のはじめに綺麗に貼ってあるレーベルを見たりして目的の字面を探している水谷だったが、なにせ図書室などほとんど使わない彼にとってそれはなかなかに至難の業だった。

 

(図書室ってこんなに広かったんだ…)

 

思わずため息が出そうになる口はしかし、その途中で閉じられた。

 

「……じゃね?……ろ」

「……べ、……よ」

 

途切れながらもぼそぼそと紡がれる2人分の声に水谷は息を呑んだ。膝を折って辛うじて聞こえる方へ顔を向けると棚と棚の隙間から緑と白のボーダーが見えて、栄口が今日着ていたポロシャツだ、と咄嗟に水谷はしゃがみこんだ。

 

「!」

 

そして言葉を失う。一瞬、息をするのを忘れた。

 

 水谷がいる場所から本棚を2つ挟んだ先、彼の目線の延長線上でふたつの手が絡まっているのが目に飛び込んでくる。握られた手の両側に2つの体があって、明らかに2人の人間が手を繋いでいるのだと知れた。

 

 信じられなくてよく見ようとしたのがいけなかった。棚に縋りつくように上体を押し付けた水谷の動きが思いのほか激しかったのか、ガタ、と音が立つ。それはたいしたことのない大きさだったけれど、静寂に満ちたその場所にはよく響いた。

 

 パッと、途端に目の先の手が離れる。

 その動作は、むしろ水谷を深く抉った。

 

 手の主たちの本気を。

 あまりにもあらわす行動だった。

 

 身動き出来ない水谷からそれ以上の音がもれることはなく、やがて物音ひとつ聞こえなくなってしまったその場所に再び零れ落ちたひそやかな声は、水谷が恐れていたまさにそのもの。

 

「……びっくりした」

「だから誰もいねェってこんな場所」

 

す、と片方の手が再びもう片方の手に近づく。

 

「ちょっと待った、もう嫌だって」

「なんでだよ」

「誰か来るかもしれないし」

「こねーよ」

「……なんか変な汗、かいちゃったし」

「いーよそんなの」

 

逃げた手が強引に捕らえられる。そしてことさら強く握られたのが水谷のいる位置からもよく分かった。

 

「栄口」

 

阿部ってこんなに甘ったるい声なんか出んのかよ。

 

「手、冷たくなってる。緊張してんの」

「うるさいな」

 

栄口、阿部にはそんな遠慮ない言い方すンだ。

 

 囁くように笑い合う声はそれだけで十分に親密で、それは、水谷が思っていたよりもずっとずっと親密で、彼らが手を解いてその場から去った後もしばらく、動くことが出来なかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ヒデェ顔してんなあ。

 

 開口一番、非常に面倒くさそうな顔をして現れた彼は水谷を見て呆れたようにそう言った。

 可愛い顔して何とやら、なチームメイトはそれでも水谷のヘルプメールを読んで来てくれたのである。それだけでも十分にありがたかった。

 

 太陽の光から逃れるように日陰に移動する泉に水谷はついていく。とはいっても屋上という場所の性質上、陽の光が当たらない場所なんてそうそうない。

 

「ったく、暑ィし」

「ごめん」

「シガポの授業サボらせるなんてお前イイ性格してるぜ」

「ごめん」

「………うぜえ」

「ごめん」

 

あーもー!と入り口のちょうど裏側に当たる場所に泉はドカッと腰を下ろした。水谷もその隣にのろのろと座る。

 廂が日よけになってくれてはいても、外の空気は熱気があって暑いことに変わりはない。運の悪いことに風もほとんと吹いていなかった。

 

 シャツが汗で肌に張り付くのが気持ち悪い。きっと泉もそうなのだろうと思うと申し訳ない気がする。彼は、ひとしきり文句を言った後は黙って水谷の隣でパタパタと胸元をはためかせて自力で風を作り出していた。やっぱりありがたかった。

 

「泉さァ」

 

切り出すと、泉がちらりとこちらを見てそしてまた前を向いた気配がした。きっと、彼がさっき言ったようにひどい顔をしているのだ。

 

「知ってたんでしょ」

「まあな」

 

何が、とは聞かずに肯定だけを示す短い返事が今の水谷にはむしろ小気味良い。

 

「オレのことも知ってた?」

「いや、こないだのグラ整のときに気づいた。お前明らかに行動おかしかったし」

「そっかァ」

 

呟いて上を向く。快晴だ。目が痛いほどに今日は、雲がほとんどない良い天気だった。わずかばかり散在している薄い白が風がないせいかひとところでくすぶっている。どこにも行けないなんて可愛そうだなあ。いや可愛そうなのは今の俺か?などと思考が妙な方向に飛んでようやく水谷は空から現実へと視線を戻した。影が途切れた先に4つの足が並んでいる。

 

 その中のスニーカーを履いた2つの足先をバタバタと動かしながら水谷はじいっと先端を見ていた。

 

「オレ、どーすればいいんだろうねェ」

「なんで他人事なんだよ」

「どーすればいいと思う?」

「知らね」

 

泉の返事はいつも即決即答、ついでに簡潔だ。

 

「そうだよねエ」

「……どうしたいんだよ」

 

なにやら優しく聞かれた気がして思わずスニーカーから視線を外して隣に顔を向けてしまったら、泉はこちらをじっと見ていた。ああ、泉ってホントに目デカイな、なんてどうでもいい感想を水谷は抱いた。

 その大きな目は一直線に水谷に向けられていて、その上なかなかに真剣な色をしている。

 

「言えよ」

「!」

「誰も聞いてねェから言えよ」

 

泉は見た目を大きく裏切ってだいぶ男前だ。知ってたけど。水谷は観念した。

 

「諦めらんねー」

 

いいんじゃね、と泉はふいと目を逸らす。つかお前そんな顔もできンじゃんなどと分かりにくいお褒めの言葉付きだ。しかしすぐに垣間見せた優しさのようなものを一瞬のうちに払拭させてギロリと水谷を横目で睨んでくる。泉の睨みは阿部に匹敵すると日頃から水谷は思っていた。

 

「けど栄口泣かせたらただじゃおかねェ」

 

肝に銘じておけよと彼は最後に言い放って伸ばしていた足をひょいと曲げたかと思うとすっくと立ち上がる。

 

「泉」

「そろそろ鳴ンぞ」

 

先に行くと言う代わりに彼はひらひらと後ろ手に手を振って呼びとめる間もなく歩き出してしまった。声をかけるタイミングを逃してしまってはおとなしくその後姿を見送るしかない。

 本当はお礼だとか、そんなに栄口と仲良かったんだ、とか、でも相手阿部なんだよねどうしようだとか。言いたいことはたくさんあったけれど全て却下されてしまったようだ。

 

「冷てェの」

 

思わずため息がこぼれるけれど、それが随分と軽いものに変わっていたことに水谷自身も気づいていた。

 

 もう一度空を見上げる。

 やはり雲は動いていないし、変わらず薄っぺらいし、うっとおしいほどの晴天だ。

 

 状況は少しも変わってない。

 栄口と阿部はきっとそういう関係で、そして自分はそれでも栄口が好きなのだ。

 

「オレ報われねー!」

 

吐きだして水谷もまた立ちあがった。立ってしまったら影の中から出る羽目になって、容赦なく照りつける太陽の光ですぐに肌が湿ってくる。暑い。うっとおしい。しんどい。

 

 眩しさに目を閉じるとすぐさまさっき見た光景が蘇ってくる。視線の先で親密に絡みあっていた指。まぶたに当たる光が熱い。

 水谷は手をかざして影を作って、一度ぎゅうっと目に力を入れてそして開けた。

 

(でも諦めらんねェ)

 

意を決して歩き出したその直後、5時限目終了の鐘が鳴った。

 

 

 

 

 

FIN