シーラカンスは目覚めない 9

 

 「お前いい加減にしろよ」

 

阿部の朝は早い。鍵を預かっている身であることもあって、一番に部室入りするのも大抵は阿部だ。花井や栄口が鍵当番をするときもあるがそれも都合がつかない日くらいで、ほとんどの日は阿部が一番に部室に入る。後続は主将や副主将である場合が多いには多いが、日によってまちまちというのが現状である。

 

 だから自分が鍵を開けて準備をはじめてすぐに部室の扉が開いたのを確かに珍しいと思った。阿部とほとんど同時刻に部室入りする部員がいるのは稀だ。タイミング的には自分が鍵を開けるのを待っていたといってもいいくらいだと阿部は思って、振り向いた先にいた相手の表情を見た彼は着替えようとしていた手の動きを止めざるを得なかった。

 

 扉の前にいたのは泉だ。

 剣呑な表情をあらわにして荒っぽくドアを閉めて泉は一直線に阿部の正面に歩いてきて、先の言葉を言い放ったのだった。

 

「………」

 

何のことを言っているのかはすぐに分かった。それはかなり一方的な発言だったけれど、昨日、栄口が席を立った後隣に戻っては来ずに泉と勉強していたのも、帰り道に2人連れ立って一番後ろを歩いていたのも知っていた。

 奥歯を噛み締める。眉間にも知らず皺が寄る。目の前の相手に嫉妬しているのだとすぐに気がついたが腹の中でふつふつと沸騰し始めるその感情を押さえることは難しかった。

 

「言っとくけど、栄口は何も言ってねーよ」

 

阿部の表情に何を思ったのか吐き捨てるように泉は付け加えた。そんなこと分かっている、と思うが口には出さなかった。栄口が誰にも言わないだろうことは、当の自分が一番解っている。

 

「でもあいつ明らかにお前のことで参ってンじゃん。何があったか知らねーけど栄口が強いばっかじゃないってことお前が一番分かってるはずだろ?ったく、お前があいつのこと乱してンじゃねェよ」

「泉には関係ねェことだよ」

「なんだと?」

 

泉は負けん気が強い。どちらかと言うと小柄でベイビーフェイスな彼は女子なんかには、可愛い、と評されることの方が多いが、その内情は全然違う。阿部の突き放すような言葉にも動じることなく声を荒げて見返してくる。

 

「関係ねーとかどーでもいんだよ。本気でそう思ってんならお前マジでもう栄口に近づくな」

「……ッ」

「あいつのことてめーの勝手で傷つけてんじゃねェよ!」

 

ぴしゃりと言い放つ泉に阿部は強く歯を噛み締めた。言っていることがいちいち正論で、だから余計に腹が立つ。情けない自分にも、栄口に頼られる泉にも、その栄口本人にさえ。

 

「なにお前栄口が好きなの?」

「はあ?」

 

ひどく捨て鉢な気分で吐いた言葉は声にした瞬間に後悔したけれど今更取り消せない。あれほど怒りをあらわにしていた泉はよほど驚いたのかさっきまでの勢いが嘘のように大きく目を見開いて間の抜けた声を出した。口がぽかんと開いたままになっている。

 

 しばらくまじまじと阿部を見ていた相手は、大きな瞳を2、3度パチパチと瞬いて、合点が言ったかのようにゆっくりと開いたままだった口を閉じた。

 

 しまったと思ってももう遅い。泉は勘の良い奴だ。

 

「あー…、なるほど…ね」

 

泉のデカイ目が先程までの様子とはまったく違った風情でこちらに向けられて阿部はとても居心地の悪い思いをしなければならなかった。存分に阿部を観察してから相手はさも呆れたようにわざとらしく息を大きく吸って、吐きだした。

 

「お前案外バカなのな」

「…てめェ」

「んだよ、ふざけんな!やっぱりお前の勝手で栄口振り回してんじゃねーか!」

 

ぐ、と阿部は詰まる。悔しいが確かにその通りなので、返す言葉がなかった。自分が勝手に彼を友情以上の気持ちで見てしまって、我慢できずにあろうことかキスなんかしてしまって彼を怒らせたのだ。

 

「………まあとりあえずさ」

 

珍しく阿部節で反論してこない相手の心情を汲んだのか、泉は随分と彼にしては優しい調子で続けた。

 

「話してみれば?どっちにしろ今のままじゃ栄口もお前もしんどいだろうし」

「分かってる」

「お前さあ、普段あんだけオレ様のくせにこういうときだけ躊躇してんなよ」

「……お前には言われたくない」

 

オレはオレ様じゃねェよ!と泉がムキになって否定するのが妙に笑えて思わず阿部が噴き出すと、つられて泉も笑い出す。ついさっきまでの険悪な雰囲気が嘘のように彼らは2人して笑い転げた。

 

「あー無駄な早起きしちまった。さっさと着替えてグラ整しようぜ」

「おう」

 

先の話題にはもう触れずに泉はそそくさと準備を始める。阿部も着替えを再開した。泉の隣で黒のアンダーシャツに袖を通しながら、阿部はひとつ、覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 その日の昼休み、花井と水谷の誘いを断ってひとり阿部は部室へと向かっていた。騒がしい校舎の中から一歩外に出れば、容赦のない太陽光が全身に照り付けてくる。そういえば以前栄口と最後にここを一緒に通った日もひどく暑い日だったことを思い出す。

 

 数学を教えて欲しいと言われて2人で部室に向かったのだ。日差しが強くて汗をかいて、そして栄口は普段2、3段目あたりまできちんと締めているポロシャツのボタンを全開にしていて。そこから覗く肌がどうしようもなく扇情的で見ないようにするのに必死だった。思えばその時点であの行動の予兆はあらわれていたのかもしれない。

 

「暑ィ」

 

記憶を振り切るように乱暴に腕で額の汗をぬぐった。今日はあの日のように気持ちを昂ぶらせるわけにはいかなかった。

 

 何と言えばいいだろうか、と歩きながら考える。

 本来ならばまず謝るのが筋なのだろう。しかし阿部は、謝るつもりはなかった。

 謝ってあのときの行動をなかったことにするのだけは我慢が出来ないと強く思う。

 

 確かに強引だった。それは認める。相手の了承も得ないで、卑劣でもあったのかもしれない。

 

 でも、本気だった。

 

 大体洒落で男にキスなんか出来るわけがない。そんな趣味は誓ってない。疲れて眠る栄口の無防備な寝顔を見てしまって、気配り屋の彼が、自分に対しては気を張らないのだという事実に嬉しさを覚えて。

 

 愛おしさが募った。

 

 まさかあんなにも歯止めがきかないとはさすがに思っていなかったけれど、それでもキスをしたこと自体を後悔はしていない。

 だからなかったことにだけは絶対にしたくなかった。たとえ彼がそれを望んでも。

 

 プールが見えてくる。阿部の位置からは水面は見えないがそこに水があると思うだけで少し涼しくなる気がするから不思議だ。水を確認することなく階段へと向かう。今日は栄口が鍵を預かっていたからおそらく先に来ているだろうと思った。居ない、という選択肢も考えないではなかったが、彼はきっと来ている。そういう奴だ。

 

 階段を上りきって一度呼吸を整える。不思議と落ち着いていた。今から自分が言うことを理解している。怖くないと言えば嘘になるかもしれない、でも久しぶりに栄口と2人きりで話せるのだということの方が胸の奥を疼かせていた。

 

 ドアノブを回す。予想通り鍵は開いていた。

 

 ―――彼がいた。

 

「よぉ」

「………話ってなに」

 

栄口は窓際に立って外を眺めていた。部室内は蒸し暑かったけれど半分ほど開いた窓から入ってくる風がそれを随分と和らげている。日差しも彼が立っている場所には降り注いでいない。

 緊張しているのがありありと分かる面持ちだった。思わず阿部は彼の腹の調子を心配してしまう。表情は硬いが、体調は悪そうな様子ではなくてほっとした。

 

「この間のことだけど」

 

窓に目を向けたままの栄口の目が伏せられた。唇がきゅっと横に引き結ばれる。どくりと鳴る心臓を阿部は押しとどめた。こんなときに口元に目が引き寄せられるなんてどうかしている。

 

「…いいよ」

「?」

「言い訳、聞いてやるよ」

「!」

 

一瞬、何を言われたか分からなかった。けれど次の瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。そのとき栄口と阿部の間にあった距離を阿部は烈火の如き激しさを持って一瞬のうちになくしてしまう。

 

「……!」

 

抵抗する間なんて与えてやらなかった。相手が阿部を見たときにはもう阿部は栄口の肩を掴んで彼の口を。

 

「……ンん!!」

 

状況を把握した栄口が暴れだしても解放なんかしてやらなかった。2人の背格好は一見ほとんど変わらないように見えるけれど、阿部は捕手だけあって見た目よりもずっと逞しい。肩を掴まれた栄口は阿部の腕を掴んで必死に押しのけようとするがびくともしない。

 

「ぅあ、はあっ……」

 

阿部によってようやく解放された頃には栄口は肩で息すらしていた。

 

「……ンなんだよ…」

 

その息も整わないままに栄口はぎり、と阿部を睨み付けてくる。

 

「なんなんだよお前?!何がしたいんだよ?!」

「わかんねェか?」

「?!」

「本当にわかんねェのかよ」

 

阿部は彼自身も内心で驚くほどに冷静だった。栄口らしくない、相手を責めるような鋭い視線を受け止めて静かに彼を見返した。

 

 掴んだ肩がびくりと震える。奪った唇がわなないている。瞳が不安定に揺れ動く。

 

 そのすべて。

 

 掻き抱きたい衝動を阿部は辛うじて押さえた。

 

「……阿部は…」

 

阿部を見つめてくる瞳が一際揺れる。呟いた栄口は途惑うように視線を逸らした。

 

「阿部は…っ三橋が好きなんだろ?!」

「はァ?」

「なのになんでこんな…!!人をバカにするのもたいがいにしろよ!」

「おま、何言って……」

 

栄口の見当外れな言葉に思わず手が緩んだのと、後ろでガタリと音がしたのは同時だった。パッと顔を上げた栄口の瞳が見る見る驚きに見開かれていく。

 

「三橋……」

「!」

 

呆然と呟かれた名前に阿部もバッと後ろを振り返った。そこには三橋が普段の何倍も蒼白な顔をして立っていた。

 

「おおお、オレ、わすれ、もの…」

「栄口!」

 

三橋の言葉が終わらないうちに栄口は阿部の腕を振り払って驚くほどの早さでドアの前に立っている三橋の横をすり抜ける。

 

「栄口くんっ!」

 

彼の後を追うように三橋もまた、普段の彼からは想像もつかないような俊敏な動きを見せた。カンカンカンカンッと外の階段が騒がしく音を立てて、やがて。

 

 静かになったそのときまで、阿部は呆然として動けないでいた。