シーラカンスは目覚めない 10

 

 サイアクだ。

 

 もはやどこをどう走っているのかすら栄口には分からなかった。阿部の言葉が耳を脳を、嫌と言うほど駆け巡ってどうすれば良いか分からない。

 

 三橋に向ける阿部の愛おしいものを見るような穏やかな視線。

 さっき自分にキスをした熱っぽい眼差し。

 

 何が本当なんだ?

 どれが本当の阿部なんだ?

 

 全然分かんねーよ!!

 

「!」

 

突如ガクンと栄口の体が傾いだ。ズザザッと上半身が地面を滑る。足がもつれたのだ。幸い転げた所が草が密生している場所であったので大きな痛みは感じなかった。

 

「ってェ……」

 

むくりと上半身だけ起き上がる。バカみたいだ、と栄口は思う。前方にあった大きな木まで這って行った。外傷があるわけでなかったが、起き上がる気力がまるで沸いてこなかった。

 茶色よりももっとずっと複雑な色合いに手をつくと温かみを感じた。ざらざらした木の肌の素っ気無さに少しだけ気持ちが落ち着いた。

 

「さかっ……!く、ん!」

 

けれど耳に飛び込んできた声に再び体が凍りつく。はぁっ、と肩で息をする声が背後から聞こえた。

 

「っは、栄ぐち、くん…。足、は、やい…ね」

 

三橋だった。

 

「………」

 

どうしようどうしよう、と栄口は意味もなく額を幹に密着させる。後ろに三橋がいる。三橋は阿部と自分の話をどこから聞いていただろう。どこも聞いていないなんてことあり得るだろうか。いや、だったら追いかけてなんてこないはずだ。

 それとも普通じゃない雰囲気だけ感じ取って自分を追いかけてきてくれたのだろうか。三橋は優しいからそれもあり得るかもしれない。

 

「さか、えぐ、ち…く、ん」

 

三橋の途惑いがちな声に、栄口は頭を幹から離して2、3度頭を振る。

 

(そんなワケないよな…)

 

あのタイミングで自分たちの話を聞いていないはずがなかった。

 

 栄口はのろのろと体を半回転させて三橋と向き合う。

 いや、向き合うと言うのは適切ではなかった。振り返ったとはいっても額と背中を交換しただけで、背を大木に預けて座った体勢のまま顔をあげることが出来ないでいた。

 

(三橋は悪くない……)

 

それは分かっている。阿部が三橋を好きなのも、三橋が阿部を好きなのも、三橋がさっき2人の話を聞いてしまったのも。三橋に非があることなんてひとつもなかった。

 

 でも、三橋を見ることが出来ない。

 

 強く噛み締めすぎて奥歯が痛かった。背中に感じる自然の温かみももはや助けにはならなかった。揺れもしない木の葉が太陽を遮って栄口の元に光は届かない。

 

(なんで…)

 

なんでこんなことになってしまったんだろうと疲弊した頭で考える。気を抜いたら涙が零れそうで、栄口はずっと気を張っていなければならなかった。何がこんなに苦しいのか分からない。思えばあの日から、ずっと苦しさが募っている気がした。

 

 阿部はあのとき、なんであんなことしたんだろう。

 そしてなんでさっき、あんなこと言ったんだ。

 

 ふっと何かの気配が近づいた気がして内側に没頭していた栄口の意識が外に促される。そうだ、目の前に三橋がいたんだとようやく思い出した時にはその影はほとんど栄口と重なりそうなほど近づいていた。

 

「……ミハ」

 

シ、という言葉は驚きに飲み込まれた。

 

 栄口は大きく目を見開いた。

 その目に映るはずだった三橋の丸くて愛嬌のある顔は目の前にはなくて、栄口の顔の真横にあるようだった。見開いたまま目の玉だけを動かすと明るい茶色のツンツン髪が見える。頬には見た目よりも柔らかいその髪の毛の感触が妙に現実味なく感じられた。

 顎の下には三橋の腕がある。そしてその腕はぐるりと栄口の肩と首に廻されている。

 

 栄口は、三橋に抱きすくめられていたのだった。

 

「………みはし」

 

栄口は驚きのあまり頭の中が真っ白になっていた。苦しさも涙も一気に吹っ飛んで、呆然となすがままに抱きしめられてしまう。その間にも三橋はぎゅうぎゅうと栄口をきついほどに抱きすくめてくるのだ。

 

(ああ…)

 

ストンと憑き物でも落ちたような感覚が栄口を襲う。ふっと口元が綻んだ。三橋の気持ちが嬉しかった。慰めなのか励ましなのか分からないけれど、全身を使って向かって来てくれた三橋の行動がその思いが、素直に嬉しかった。

 中学の暗い思い出のせいで三橋は極端に人見知りだ。最近は目も合わせてくれるようになったし、挨拶だって返してくれるけれど、そのひとつひとつに彼が多大な勇気を動員しているのを栄口は知っている。

 

 そんな三橋が自ら誰かに触ってくるなんて、しかもきつく抱きしめてくるなんて。

 

 一度は止まった涙がまた溢れそうになって慌てて目に力を入れる。

 

 なあ三橋。

 おまえかっこいいよ。

 

 ……敵わねェよなあ。

 

「三橋」

 

何が敵わないのか自分自身も理解しないままに栄口は負けを認めて、三橋の腕に顔を埋めた。言わなければいけないと思った。

 

「三橋もさ、阿部が好きなんだろ?お前ら両思いなんだから、付き合っちゃえばいいじゃん…」

「さか……」

「お前ら、お似合いだと思うよ。うん、ほんと…」

「さかえぐち、くん!」

 

いつになく大きな声で名前を呼ばれて栄口は思わず口を閉じる。三橋は更にぎゅうっと苦しいくらいに、栄口の首を締め付けてきた。

 

「阿部、くんのこと、す、きなの、…俺じゃなく、って。さか、栄口くん…じゃないか…ッ」

「!」

「それに、オ、オレ…は、あ、阿部、くん、も、すす、好きだけど、栄口くん、や田島君…や、花井く、ん、や…み、みみんな好き、だよ!」

「え……?」

 

ぽかん、と栄口は三橋の腕の中で間の抜けた顔をしてしまう。

 

「みんな…?」

「う、うん!」

「みんなって、野球部全員だよな?」

「うん、みんな、好きだ、よ!」

「………」

 

栄口は三橋に抱きしめられたまま、体全体からどっと力が抜けるのを感じた。ぐったりとしてしまった体は全体重が三橋にかかってしまうけれどとてもじゃないけれど力を入れなおすことが出来ない。

 三橋の体は投手なだけに肩が強く、華奢に見えても筋肉はしっかりついている。栄口の全体重がかかっても辛そうな素振りはまるでない。それに甘えながら三橋の腕の中で内心、深く息を吐く。

 

(みんな、かァ…)

 

三橋の言葉に嘘がないことは明白で、だからこそ栄口は複雑な気持ちになってしまう。

 

(阿部……)

 

浮かんできた名前に目を伏せる。すると栄口の気分を察知したのか、三橋がもぞりと慌てたように動いた。

 

「そそ、それに!」

 

さわりと三橋の指が栄口の髪に触れる。そしてきゅっと襟足が握られた。

 

「阿部、君、がす…好き、なの、は、俺じゃ、ない…よ!」

「………?」

「おおお、俺なんかじゃなく、て!」

「三橋」

 

栄口はハッとして顔を上げる。三橋の言葉を遮ったのは栄口ではなく、その更に後ろにいつの間にかあらわれていた人物だった。

 思わず上げてしまった視線の先にしっかりと阿部の姿を捉えてしまった栄口はその硬い表情から目を離せずにいた。

 

「ちょっとどけ」

 

それが自分を抱いている人物に向けられているのだと理解するのに数秒間を要した。その間に三橋は栄口からそっと体を離していて、栄口が気づいたときには心配そうな三橋の顔が目の端に映る。

 その表情はいつもの三橋で、栄口はつい頬を緩ませて彼を安心させるような表情を見せてしまって、そんな自分がなぜだかとても可笑しくていつの間にか自然に顔が綻んでいた。

 

 三橋は栄口の笑顔にほっとした様子を見せて立ち上がった。そう言えば自分は座ったままだったのだと思い出す。

 

 立ち上がった三橋は阿部の鋭い眼光に相変わらずびくつきながら、じゃ、じゃあ…と蚊の泣くような声を残して駆けて行く。その後姿を見つめながら栄口は、三橋はやっぱり三橋だなあなんて呑気なことを考えていた。

 

「おい」

 

三橋の後姿が見えなくなった頃、阿部の声と、ガサリと草を踏みしめる音が今更ながら耳に入る。栄口は今度こそ自分の意思で声の主を見上げた。

 

 阿部は、数歩しかなかった栄口との距離を無遠慮に詰めて栄口の目の前に立った。座ったままの栄口はただ彼の顔を見上げるばかりだ。ひどく不機嫌な顔をして自分を見下ろしている阿部の顔を。

 

「お前が好きだ」

「……うん。…え、と?」

 

言われた言葉に反射で頷いて遅れて驚く。阿部の表情と台詞があまりにも噛み合っていなくて栄口はきょとんとしてしまう。吟味する間もなくぬっと阿部の手が栄口の腕を捉えた。

 

「ぅわっ」

 

そのまま乱暴に手を引かれて立たされて、腕が抜けるかと思った。

 

「阿部?」

「てめェ、三橋に抱きつかれてんじゃねェよ!」

「??」

 

今にも殴りかかってきそうな様子で怒鳴られて何度も目が瞬いた。阿部の剣幕に思わず後ずさるがすぐに背中に何かが当たって行く手を阻まれてしまう。ついさっきまで木の幹に寄りかかってしまっていたことさえ栄口の頭から抜け落ちてしまって、ただ、訳も分からぬまま目の前の男を凝視するしかない。

 

 阿部は心底イラついているという表情を隠そうともしないで栄口を睨み付けたのち、ぐいとアンダーシャツの胸元掴んで自分の方に引き寄せて。

 

「!」

 

え、と思う間すら栄口は与えてもらえなかった。気づけば目の前に阿部の黒が際立つ瞳、口には自分じゃないひとの唇の感触。おそらくというか間違いなく、今自分の視線の先にいる人物のものだろう。

 頭の中でそんなことをハイスピードで考えていること自体が余裕がまったくない証であるなんて栄口自身はもちろん分かっていない。

 

「んんっ!」

 

あれよあれよと言う間に口の中にその誰かの舌が入ってきて栄口は慌てて抗議の声をあげようとするけれど塞がれて行き場を失った声は不本意に喉の奥を鳴らすにとどまった。

 

 舌が絡め取られる。

 生温いぬめりが何度も何度も口の中を往き来する。

 

 それはいつしかも阿部が栄口にもたらした感触だった。

 

「分かったかよ」

 

呆然とする栄口をようやく解放して阿部は、信じられないくらい傲慢に言い放つ。ただ、相変わらず怒ったような顔で自分を射抜く強い眼差しに相手の必死さを感じ取らないわけにはいかなかった。

 

 こくんと一度頭を振った。阿部は満足したのか、少しだけ硬い表情が緩んだのでほっとする。

 

「抱くぞ」

「?!」

 

ええっと思ったときには阿部の腕の中だった。阿部の力は強かった。三橋にだって随分きつく抱きしめられたはずだけれど、比べものにならない。

 それは力の強さではなく、思いの強さだ。

 

 阿部の心臓の音が聞こえる。締め付けられる自分の体が震えるのを栄口は感じた。胸が少し苦しい。けれどその締め付けがきつければきついほど締め付けてくる相手の感情が流れ込んでくるようだった。

 

 堪らなくて、オレも、と小声で言って栄口は彼の背中におそるおそる手をまわす。何がとは阿部は聞かなかった。胸が圧迫するほどに阿部の両腕がきつく締まったからきっと通じたのだと栄口は思った。

 

 全身に感じる阿部の鼓動と体温とが、自分のものと交じり合う気がする。それら全部を預けた背中ごと包み込んでくれる後ろの存在に全て委ねて栄口は、ゆっくりと目を閉じた。

 木々の匂いと草の匂いと、阿部の匂いが視覚を塞いだ栄口の鼻腔をくすぐる。一様に熱を帯びた彼らの吐息がひどく熱い。それが栄口が今感じ取れるものすべてだった。

 

 夏が、すぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

FIN