シーラカンスは目覚めない 8
夕飯にはまだ早いファミリーレストランは予想通り込んでいなかった。とはいえ日曜なので夕食時になってもさほど人は増えないかもしれない。 阿部と花井を除いた部員たちは奥の、大人数用の席を陣取っておのおの空腹を満たしている。人数が人数なので人がまばらな店内で目立ってはいたが、客も店員も高校生の集団には慣れているようで気にも留めない。それなりにざわつく店の中の、一際賑やかな一団といったところだった。
栄口はソファ側の一番端っこに座ってついさっき持ってきたドリンクバーのジュースを飲み下しながら前の席にいる三橋の暗記の手伝いをしていた。その隣では田島が巣山を先生にひたすら鉛筆を動かしている。余裕のある泉と西広と沖は何やら話しているようだ。水谷は椅子側の端っこでウォークマンを聞きながらひとり集中して単語と格闘していた。
「うん、じゃあangry、は?」 「おっ!おおお、おこ、る」 「そうそう、覚えてるじゃん」 「お、怒る、はあべ、くん…」
三橋の言葉に単語帳をめくっていた栄口の手が止まる。しかしすぐに、うん、そうだね、と指先を動かして小さな長方形の紙をぺらりとめくった。
「阿部はよく怒るよな。それで覚えたの?」
栄口の問いかけに三橋は何度も顔を上下させた。その必死な動作を微笑ましいと思う。思うのに、自分が今ちゃんと笑えているのかどうか栄口には分からなくて胸の中がざわざわした。それを振り切るようにじゃあ次ね、と三橋から顔を逸らしてアルファベットに目を落とす。
「あ!花井と阿部だ!」
が、目の良い田島が花井と阿部を見つけたらしくバッと手を挙げて席を立ったので、栄口もつられてまたすぐに顔を上げることになった。
「おーいぃ!こっちこっち!」 「こら田島、座んなって」
大声をあげる田島の手を引いて慌てて座らせながら栄口は外を見た。確かに花井と阿部がこちらに向かってくる姿が見える。徐々に近くなる2人をじっと見るけれど、表情が分かるくらいの距離まで来たら目を伏せてしまう。 彼らはしばらくしてから店の入り口にあらわれた。
「片付けおつかれー!」 「おつかれさん〜」 「おお、はかどってるか?」
花井と阿部が合流して西浦高校野球部員全員が揃った。花井は空いていた三橋の隣の椅子に腰を落ち着ける。必然的に阿部は栄口の隣に座る形になる。一瞬、身体が少し強張るのを栄口は感じたが膝に置いていた手をきゅっと握り締めてやり過ごした。阿部は立ったままだ。躊躇しているようで、すぐに座ろうとはしない彼らしくない様子にごくりと唾を飲み下して栄口は腰を上げた。
「あ、オレ便所。阿部ここ座りなよ」
三橋の目の前であるその場所を阿部に勧めて栄口は席を立った。心なしか本当に腹の調子が悪い。阿部は栄口を見て何か言いたそうな顔をしたけれどそれに気づかなかった振りをしてその場を後にした。
とりあえず宣言どおりトイレを利用して、手を洗い席に戻ろうとした栄口だったが、その意志とは正反対に足はなかなか進んでくれない。思わずトイレの前の壁に背中を預けてしまってそんな自分に苦笑した。
「………何してんだオレ」
戻らなくても自分が胃腸が弱いことは既に知られているから、誰も気にも留めないでいてくれるんじゃないかとか、都合の良いことを考えてしまう。それだってあまりにも長かったらさすがにいぶかしまれるだろうに、それでも、動く気になれないのだ。
阿部は今頃自分の代わりに三橋に単語の問題を出してやっているのだろうか。怒りながら苛々しながら、それでも辛抱強く付き合うんだろうな、と。 思いながら栄口は、今日の練習試合を思い出していた。
阿部は始終三橋の傍にいた。 三橋の様子を常に気にして、彼が弱気になるたび怒ったりなだめたりして大事な投手を勝利へと導いた。 勝って三橋が笑うと、阿部も嬉しそうな顔をする。愛おしそうに三橋を見る。そんな阿部に安心するように、三橋も。
(……なんで………)
彼らの様子を思い出すだに疑問が栄口の頭に沸き上がった。思い出したくないあの日のことが鮮明に脳裏に浮き上がってきて栄口を苦しめる。
気づけば指が唇に触れていてハッとする。眉間にきつい皺が寄っていた。
「栄口?」
突然名前を呼ばれて栄口は慌てて顔を上げた。
「泉」 「なに、ハラ痛いの?」 「あ、まァ、ちょっと」 「…大丈夫か?」
栄口は泉を見返した。その言葉には、何か別の意味合いが込められているような気がしたからだ。
「大丈夫だよ」 「そっか、戻れそうか?」 「うん」 「じゃあちょっと待っといて。単語覚えんの手伝ってくんね?」 「うん、いいよ」
しかし泉は何も言わないので栄口も体調に対する返事として返答する。泉がトイレから戻ってくるのを待って2人は、泉が座っていた側、つまりは阿部と三橋がいる位置とは反対側のソファ席に戻って単語の勉強を再開した。 お互いに問題を出し合う2人に、集中が切れた水谷がちょっかいを出してきたり、西広に暗記の秘訣を聞いたりして時間が過ぎていった。栄口は自然に笑えている自分に心底ほっとしていた。
***
「泉、ありがとな」
帰り道、集団の一番後ろを少し離れて歩きながら栄口は隣の泉に声をかけた。泉と栄口は帰る方向が逆なので、今言いたかったのだ。
「なにが?」 「なんとなく」
案の定、空とぼける泉に説明を加えたりはせず、へへ、と笑う。なぜだか胸が底の方から締まってくるような感覚がして表情を作らないと目の端が緩みそうだった。
「……ばーぁか」
それに気づかない振りで、けれど歩く速度を少し落として泉は栄口の側に近づく。そして小さな頭にのる帽子のつばをくいと下げた。
「何があったって聞いた方がいいか?」 「……」
栄口は答えられない。原因ははっきりしているのに何を言えば良いか分からなかった。阿部のしたことに怒って、泉にそれに対しての糾弾をしてしまえれば楽なのかもしれない。
でも栄口は分かっていた。
あの怒りは一時的なものだった。栄口は阿部に対してもはや怒りの感情を抱いていない。 ならば、何にこだわっているのか。それが分からない。
あの日以来、阿部と関わりを持つことが出来ないでいる。 以前は特別な繋がりさえ感じていたのに、今はその距離が遠い。遠ざけているのは自分の方だと自覚はあるけれどどうすることも出来ない。 阿部の視線を感じることもあった。けれどそれと正面から向き合うのが怖い。
阿部は自分に何を言おうとしているのだろう、と思う。謝罪だろうか。……何に対しての?ちょっとからかっただけだ、悪かった、そう言われてしまったら。
言われてしまったら……?
栄口は目を伏せて俯いた。胃の辺りがキリキリと痛む感じがしてぎゅっと服の腹部部分を掴んだ。いや、痛いのはもう少し上の方のような気もした。
からかってごめんと。そう言われたほうが良いに決まってる。それで元の関係に戻れるならその方が自分にとっても阿部にとっても、チームにとっても良いはずなのに。
なのに、怖い。でも何をそんなに恐れているのか、栄口にはまるで見当がつかなかった。
まさしくそれが分かるのが、怖いのだと。 このときの栄口は気づけないでいた。
「…よく分かんねーけどさ」
泉の声が耳の傍で聞こえて没頭していた思考が引き戻される。帽子のつばがじゃまで前が見辛かったけれど、なくてもきっと妙にぼやける視界では同じことだっただろう。照り付けられたアスファルトに反射する光がじりじりと目を焼く心地がする。
「あんま無理ばっかしてんじゃねェよ」 「してないよ」 「どうだか」
バシリと頭を叩かれた。痛くないそれにまた胸が詰まった。 |