シーラカンスは目覚めない ７
梅雨の過ぎた関東地方は日々暑さを増して、夏に向けて上空の準備は万全整っているらしかった。西浦高校野球部も夏の大会へ向けて着々と準備を進めている。 西浦高校の第２グラウンドからは平日も休日も、朝から晩まで球児たちの声とバットやミットが硬球を捉える音が絶え間なく聞こえてくる。日曜である今日も、練習試合が行なわれるスケジュールになっていた。
試合の前にグラウンドを整備して西浦ナインはストレッチに入る。阿部は三橋の背中を押しながら対角線上にいる人物をチラリと盗み見た。 水谷と組んでいる栄口は背中を押されてべたりと上半身を開いた股の間につけている。柔らかい身体はまだまだ伸ばす余地がありそうだ。 昨日は巣山が栄口の背中を押していた。一昨日は泉。その前は田島だっただろうか。その前は、と考えて阿部はそこで思考を止めた。
誰と組んでいたなんてことは考えても仕方がないことだ。重要なのはそこではない。重要なのは、ここ２週間ほど栄口と阿部はストレッチのペアになっていないということ。 更に言えば。
「ぐえぇ」
妙な声が下から聞こえて阿部は慌てて手の力を緩めた。
「阿部、押しすぎだろ！」 「確かに三橋は柔らかいけどな」 「やりすぎやりすぎ」 「お前っ、いてェならいてェって言えよ！」
四方からの非難の声を無視して阿部が怒鳴ると、三橋はううーと瞳を潤ませる。ああ泣くぞ、とみんなの間にちょっとした緊張が走ったその瞬間、彼の声が聞こえた。
「大丈夫だよ三橋。ほら阿部、背中押してやんなよ」
栄口の言葉に三橋がほぇ？という顔をする。阿部が彼を見ると、栄口は三橋に笑いかけていた。三橋は栄口と阿部を交互に見て様子を伺っている。ホントかな、大丈夫かな、と思っている顔だ。
「……おい、押すぞ。次は痛かったら言えよ」 「う、うん！」
阿部にしては最大限に優しい声を出して話しかければ三橋は大きく頷いて、阿部が背中を押す前に自らべたりと前のめった。その様子に部員の間に笑顔が戻る。
「お前ホント柔らけェなー！よし、どっちが柔らけェか勝負だ！」 「田島、お前は次押す方」 「えぇー！泉のケチ！」 「さっさと押せ！」
円を組んでストレッチをするナインから笑い声があがる。その中に混じる彼の声を阿部は聞き分ける。見たところでこちらを向いていないだろうことは明白だった。
――更に言えば。 あの日以来、栄口は俺を見ない。
＊＊＊
練習試合は２試合とも快勝だった。 監督からの指示で今日はダウンした後グラウンドを整備して帰ることになった。自主練もなしだ。明日、多くのクラスで英語の小テストがあることを志賀から聞かされたのかもしれない。中間考査はみんな無事に乗り切ったけれど、夏の大会前には期末がある。何人かの部員を危ぶんで下された決断だろう。
久しぶりに明るいうちから帰れることで彼らは浮かれていた。しかし百恵のひと睨みでいそいそと部室に戻る道すがら、英単語をわざとらしく暗誦したりする部員たちは一様に勉強するくらいなら練習がしたいと思っていただろうことは想像に難くないが、それを口に出来る猛者はもちろんいなかった。
部室で着替えているうちにやはり用事がない者はみんなで勉強をしようという結論に落ち着き。毎度三橋の家を使うわけにはいかないという花井の主将らしい発言で近くのファミレスに落ち着くことになった西浦一同は、早々に着替えを済ませて各自荷物を急いでまとめた。皆腹が減っているのだ。
「あーじゃあ栄口先に行っててくれるか？俺と阿部が後してくからさ」 「いいよ〜。じゃあ、席取っておくから早く来いよ。特に英語に花井は欠かせないからね！」 「オイこら三橋！田島！勝手に行くな！！」
先に走り出して階段を下りていく田島と三橋を泉が追いかける。巣山と沖と西広はそんな彼らの様子に笑いながらゆっくりと後を追う。
「栄口！早く行こ！」 「うん、じゃあヨロシクな」 「お〜」
水谷の催促を受けて栄口と水谷は２人して部室を出ていった。花井はそれに応え、阿部は顔を向けることで了解を示す。目が合ったのはやっぱり水谷だけだ。
「………さて」
部室には花井と阿部の２人が残った。階段を下りていく足音ももう聞こえない。部員全員がいたときとはくらべものにならないほど室内が静寂を取り戻した頃、忘れ物の確認をしていた花井が口を開いた。
「阿部、栄口と何かあったのか？」 「…別に」
阿部はその問いを半分予想していた。栄口をはじめとした皆を先に行かせたときに花井は自分に話があるのだろうと思ったのだ。ここ最近の自分の様子に花井は感づいていたようだったから、おそらくそこを問い詰めてくるのだろうと。 けれど、それに栄口が絡んでいることまで察しているとは思わなくて返事が一拍遅れた。
「何でもないならいいけどよ、お前らちょっと変じゃねェか？」 「……そうか？」 「２人で話してるとこなんて最近全然見ねェし。それに栄口、お前のことなんか避けてるだろ？喧嘩か？」
花井の指摘はあまりにも的を得ていて阿部は返す言葉を失ってしまう。黙り込む阿部に主将は戸締りに移ろうとする動きを止めて真正面から阿部を見据えた。
「個人的なことに口を挟む気はねェよ。でも夏大も近い今、オレらの要でもあるお前らがそんなんじゃちょっとまずいだろ」 「分かってる」 「喧嘩ならまだいいんだけどな、」
一度言葉を切って花井は考え込むように指で顎を２、３度撫でる。続ける言葉を探しているようだった。
「なんか…そんな風でもねェし」 「……どんな風にみえる」 「なんつーか。栄口が一方的にお前を避けてるっつーか。阿部は逆にいつもあいつを見てるよな」
お前こそよく見ている、と阿部は内心で嘆息する。花井を主将に据えた自分達の観察眼を褒めてやりたいところだが今はそんな気分にはとてもなれない。 話すべきだろうか、と阿部は逡巡する。あの日から自分のことを見ようともしない栄口の、その原因を。部に迷惑がかからない程度には関わってくるけれど以前のように自分に笑い掛けたり、話しかけたりすることをしなくなった栄口をこの男は気づいているのだと知った。
胸のうちをさらすことをさほど恐ろしいとは思わなかった。けれど話すことであの日のことを思い出すのは恐ろしい気がした。
自分がキスをされたのだと知ったときの、栄口の反応。 驚きと、そして怒り。
そんなに嫌だったのだろうかと思う。そして当たり前かとすぐに答えを出す。男にキスされて喜ぶ奴なんていない。しかも、今思えばあの時の自分に心底呆れるけれど、自分は舌まで入れたのだ。
栄口の口内は生ぬるく、心地よかった。それと引き換えに大きなものを失くす結果になってしまったけれど。
阿部は黙った自分を辛抱強く待つ花井に目を向けた。そうしてかぶりを振る。栄口はきっと知られたくないと思っているはずだ。
「悪ィ、しばらく待ってくれ」
それしか言えなかった。阿部の応えに花井は少し息を吐いただけで頷いてくれた。分かった、ということだろう。
「よし、じゃあ行こうぜ」
鍵を取り出してくるくる回す花井の後について部室を出ながら阿部は前を行く男の背中をいつもより大きく感じる。決して納得のいく答えを返したわけではない自分を受け入れてくれたことがありがたかった。
「あー腹減った！」 「そうだな」
花井がうん、と伸びをしながら階段を下りる。部室棟を照らす、既にオレンジがかってきている太陽の光がやさしく少年たちを照らし出していた。 |