シーラカンスは目覚めない 6

 

 本当に驚いたときは声なんか出ないんだと知った。

 

 栄口はまどろみの中にいた。

 夢も見ないほど深く眠りに落ちていた彼は睡眠のもたらす気持ちよさだけを享受していたはずだった。

 

 すごくすごく心地良くて、もし意識が少しでもあればこのまま目覚めたくないと思うだろうほどに夢見心地で熟睡していた栄口をけれどその感覚は放っておいてくれなかった。

 

 完全な無であった意識が徐々に揺れ動きだす。濃い、とても濃い霧が徐々に徐々に晴れていくようにそれは栄口を濃霧の底から呼び戻した。頭に少しだけ重みを感じて、そのあと顔の辺りにも何かを感じた。けれど何、とか何処、だとか明確に指摘できるほどには脳は目覚めてはいなかった。

 

 何かが顔の辺りに触れている。

 

 辛うじて感じたのはその程度のことだけで、意味も理由も分かってなどいない。ただそれはもやのかかった頭の中と同様にひどく気持ちの良いもので栄口はああ目覚めたくない、とほんの少しだけ覚醒したぼんやりとした意識で感じ取る。

 

 触れては離れ、触れては離れる感触がくすぐったくて何だかいい。ずっとこのままでいられたらどんなにか幸せだろうと思う彼の願いが、次の刺激と共に脆くも崩れ去ると予想できるはずがなかった。

 

 くすぐったくて心地よい何かがやんで顔の下の方を掴まれた。このときはまだその程度の認識だった。しかしすぐに妙なものが自分の舌に触れたのを理解する。

 

 舌?

 

 栄口の意識はとうとう疑問を覚醒させた。ぬめりを帯びたものが自分の舌に絡んでいることに彼は気づいて一気に脳の中がクリアになる。

 

「ッ!」

 

ここまできて漸く彼は目を覚ました。そして同時に今、自分に起こっている信じられない状況を目の当たりにした。

 

 目を開けた途端に飛び込んできたのはあまりにも近くにある人間の目で、それが阿部のものだと理解するのに少しだけ時間を要する。そしてなぜそんなに阿部の目が近いのかということと、自分の口に入っているものとを結びつけるのにはもう数秒必要だった。

 

「………っ!!!」

 

全ての謎が解けたとき栄口は考えるよりも先に体を動かしていた。ものすごい勢いで離れる阿部の顔。いや、離れて行っているのは栄口の方なのだがそんな些細なことに気を回している余裕など彼にはない。飛びのく際にすねを派手に机にぶつけたけれど痛みよりも驚きの方が勝っていた。

 

「……………ぉまッ」

 

じんじんと痛む足を省みる余裕もなく未だ力なく後ろに後ずさりながら栄口は口をパクパクさせる。

 

「な、なに……ッして…!え?!」

 

阿部への言葉は最後には自分への疑問となってしまう。

 

 自分は今、一体何をされた?

 阿部は何をしていた?

 

 バッと反射的に手のひらで口を覆うが、それは全くの逆効果ですぐさまその手を離してしまう。唇が濡れていたのだ。

 

(えぇ?!)

 

パニックに陥る栄口に対して、阿部は至極冷静だった。

 

「栄口」

「ッ」

 

名前を呼ばれてびくりとする。傍から見ればまるで三橋が乗り移ったように見えたかもしれない。

 

「栄口、とりあえず落ち着け」

「落ち着いてられるかァ!」

 

怒鳴り返す栄口に困ったように阿部は軽く息を吐いた、――その仕草。

 

「……!」

 

その阿部の仕草が、栄口の勘に触った。

 

「……んだよ」

 

ぐっと拳を握り締める。驚きは一瞬のうちに形を変えた。無性に悔しかった。阿部の冷静さが、キスなんてされて起きもしなかった間抜けな自分が、そのキスが栄口にとってははじめてだったことが、三橋を好きなくせに自分にそんなことをする阿部の行動の意味の分からなさが。

 

 全部が全部許せなくて、驚きはその瞬間、阿部にとっては都合の悪いことに堪え切れない怒りへと変貌する。

 

「栄口、お前今足打っただろ。まずそれ見せろ」

 

それなのに阿部は栄口の足の心配なんてしている。信じらんない、ホンット、信じらんない!!栄口は憤る。

 

 ひとにこんなことをしておいて?!

 他に言うことねェのかよ!弁解くらいしろよ!!

 

 オレをからっかてんのか?

 だからそんなに冷静なのか?

 

 栄口の頭の中はもはやぐちゃぐちゃだった。言いたいことがありすぎて言葉にならない。罵ってやりたいのに感情の起伏の激しさに行動がついていってくれない。メーターはいとも簡単に振り切れた。

 

 ……三橋が好きなくせに!

 

 胸のうちで、声の限りにそう叫んで痛む足を堪えて立ち上がる。

 

「おい」

「オレに触んな」

 

机をどけてこちらに向かってこようとした相手を睨み付けた。さすがにその眼差しの鋭さに阿部の動きが止まる。栄口はそれを確認して机の近くに置いてある自分の荷物を引っ掴んだ。机の上に置いてあるノートや筆記具にまでは頭が回らないで、すぐさまきびすを返す。もはや1秒たりともこの場にいたくなかった。

 

「栄口!」

 

引き止めようとする大きな声が背中の後ろから聞こえたけれど、足を止めることすらしなかった。