シーラカンスは目覚めない 5
部活のない日の部室は静けさに満ちていて、全然違う場所にいるかのような錯覚を覚える。毛羽立った畳の上には誰が持ち込んだのかちゃぶ台がひとつ置いてあり阿部と栄口はそこに向き合う形で座っていた。 部員全員が使うには手狭な室内も2人きりだとおそろしく広く感じられる。居慣れている場所であるはずなのに栄口とたったふたりというシチュエーションが阿部に幾らかの緊張を強いていた。
真剣な顔をして問題を解いていく栄口を阿部は、数学の教科書にパラパラと目を通す振りをしながら盗み見た。
基本的に栄口は飲み込みが早く、頭の回転も速い。 よって事細かに教える必要はなくてポイントを押さえればあとは自力で解く力を持っている。加えて集中力もあるので正直に言うと、7組の教室の端でやるのでも十分に事足りたはずだった。
だから花井の提案に乗ったのは、阿部の完全な下心だ。
隙あらば栄口に絡もうとする水谷と引き離したかったからというのも大きな要因だが、2人きりの空間で誰にも邪魔されずに彼を独占したかったという願望がなかったとは到底言えない。
けれど、阿部はそのことを早くも後悔していた。
(焼けたな)
野球部は陽の光の下で部活をするのだから無理もない。これから夏にかけて日差しはもっと強くなり、自分たちはどんどん黒くなっていくだろう。 けれど陽に焼ける部分が限定されるのもまた、野球特有の現象でもある。露出が極端に少ないウェアを着用するスポーツなので四六時中外にいるくせに陽に焼ける場所が限られる。
そして今、目の前にいる栄口は今日が暑かったせいだろう、まさしく陽に焼けた顔や腕と同時に普段は白日の元に晒さない胸元までもを全開にしていた。 栄口は男にしては色が白い方で、1日中グラウンドで白球を追っても日焼けがさほど目立たず、ちょうどキレイな小麦色に焼ける程度だ。だから実際に焼けていない部分はもっと白い。
「………」
男相手に目のやり場に困るなんて馬鹿馬鹿しいにも程があると阿部自身思う。思うけれどしかし実際に目の前にすると、直視してしまうのはいろいろと問題が生じてきそうで憚られた。
「あとは自分で出来そうだな」 「うん?ああ、うん。大丈夫そう。ありがとう」 「わかんねェとこあったら聞けよ」 「うん、ありがと」
同意を示す栄口に阿部は数学の教科書を脇に追いやってバッグの中から雑誌を取り出した。煩悩を追い払うためにはやはり野球に助けを求めるしかなかった。
***
パラ、パラリ。
何度目かの動作を繰り返したときだ。カタンと前方から音がしてふと顔を上げれば、机を挟んだ向こうで数学と格闘していたはずの栄口の右手からペンシルが抜け落ちてノートの上に転がっている。手の指が物を握る力を失くしているのだった。 机に肘を突いて頬に添えられていた左手が今は顔全体を支えているようだ。手のひらから近い位置にある口がうっすらと開いて、か細い息が何度もそこを行き来している。瞳は閉じられていた。
阿部のページを捲る手が知らず止まる。
「…栄口」
ぼそりと名前を呼んでも反応がない。瞼が少しだけ震えたように見えたけれど開くことはなかった。 じ、と目の前で気持ちよさそうに寝ている相手を見つめる。
(赤ん坊みてェな顔しやがって)
左手を伸ばして無防備な頬をつつく。思った以上に柔らかくて一瞬、指が止まった。しかしすぐに平静を取り戻してむにぃとつねってやった。それでも栄口は起きる素振りすら見せない。
疲れているのだろうと思う。 夏の大会に向けて野球部員である自分たちに休みという休みは与えられていない。平日は野球と授業、土日はそれこそ朝から晩まで野球漬けだ。週に一回のミーティングのみの放課後も、副主将という役職を預かっている身には雑務がある。勉強だって決して疎かにするわけにはいかない。
目の前で小さな子供のように寝息を立てている彼は特に、そういったことをきっちりとこなさなければ気がすまない性分だ。
阿部はつねっていた指を外して気持ちよく日焼けした栄口の頬を指の平で撫ぜていた。それでも彼は弱音なんて吐かないことをよく知っている。そんな今を心から楽しいと思っていることを阿部は分かっていた。だって自分だってそうなのだから。
だけども人一倍周りに気を配る栄口は自分よりも精神的消耗度が高いだろうことも十分に想像できた。意識しているわけではないのだろうから知らないうちに疲れがたまっていることになる。
思わず頬に触れていた手をそっと離して代わりに小さな頭を優しく撫ぜてしまった。
「お疲れさん」
声に出して呟いたら、急速に愛おしさが募る。自分の中で一瞬のうちに大きく膨らんだものに阿部は驚いた。短く刈られた手触りの良い髪を触っていた手が震える。ぴくり、とその下の頭が動いたことに動揺していた阿部は気づかなかった。
右手を軸にして大きく身を乗り出す。 ―――もはや気持ちを止められなかった。
口と口とが触れ合う。
そんな何でもないはずのことが、いざ相手を目の前にしてみると驚くほどに胸を突く。 キスがはじめてなわけではなかった。 だが今、阿部が一方的にしているその行為は今まで経験したことのあるはずのものとはまるで別物のように思えた。
触れて、離れる。そしてまた触れる。
近づく毎に体の芯が熱を増す心地がする。離れる度にまだ足りないと渇望する。我慢が出来なくて、支えていない方の手を相手の顎に添えてくいと上向けた。
薄く開いていた栄口の唇をもう少しだけひらかせてそこに自分の口を重ねてぞろりと侵入した、その先にあった相手の舌をきつく吸った。
そのとき。
パチリと栄口の目が開かれた。 |