シーラカンスは目覚めない 3
その日の授業はまるで身に入らなかった。 ホームルームを終えた7組の喧騒の中で阿部は人知れず溜息をついて足元の横に置いてあったスポーツバッグを机の上に載せる。教室の至るところで発生する机や椅子がずれるガタガタという音や生徒たちの話し声は耳を素通りしていった。
「…べ。……阿部!」
ぼうっとしながらバッグのファスナーを閉めていたところに大きな声が聞こえて少しだけ目を見開く。それでも慌てることなく声の相手を振り向くと、帰宅準備を整えた花井が妙な顔でこちらを向いていた。
「悪ィ、ぼーっとしてた、なに?」 「別にいいけど大丈夫か?今日ずっとそんな調子じゃねェ?」 「ちょっと寝不足なだけだよ」
心配そうというよりは物問いたげな花井の視線に気づかない振りで短く返せば相手もそれ以上問い詰めようとはしない。納得したわけではないだろうが、こういうとき、踏み込む度合いを間違えないのが花井の良いところだと阿部はひそかに思う。
「で?」 「今日のミーティング、ココで済ませっからちょっと残っといて」 「全員でやんねェの?」 「ああ。今日はオレとおまえと栄口だけでやることにした。監督も来れねェらしいし」
栄口という名前に僅かだけれどぴくりと阿部の手元が動く。幸いなことに花井には気づかれなかった。
「栄口には放課後こっちに来いって言っておいたから多分もうすぐ来るだろ」 「ふうん」
気のない風を装った返事はどうやら成功したようだ。花井は阿部の内心の動揺に気づかないまま席のセッティングを始めた。花井と阿部の席は隣同士なのでそれにもうひとつ、近くの席の奴に断りを入れて椅子だけを拝借する。教室の一番後ろ、2つの机を向き合わせてそこにひとつ椅子を追加すれば簡易会議所の出来上がりだ。
「アレ?なになに、もしかして今日はココでやんの?」
着々と準備を進めていると目ざとくその行動の意図に気づいた水谷が近づいてきて、オレもオレもーとまとわりつく。言葉にすらしないで剣呑な表情をあらわにする阿部に、花井はやれやれと水谷の相手を勝って出た。
「遊びじゃねェんだぞ、水谷」 「分かってるよぉ。でも話聞くくらいはいーでしょ」 「別にいいけど、練習メニューとか練習試合の日程とか相談するだけだぞ?」 「いいのいいの!だって栄口来るんでしょ?」
水谷の言葉に自分の席を花井の席に近づけていた阿部の手が止まる。しかし、会話中の花井と水谷はそれに気づかなかった。花井は引き寄せた第三者の椅子を少しずらして、水谷の座るスペースだけ作ってやりながら呆れた表情を見せた。
「お前ほんと栄口に懐いてるよな」 「だって栄口優しいもん。誰かさんみたいにヒドイこと言わないし!」 「あァ?」
水谷の発言にドスの利いた声をあげるのはほとんど阿部にとって反射のようなものだけれど今回はそれに拍車がかかって険悪で、思わず花井と水谷が会話を中断して振り向いてしまうほどだった。 当の阿部は2人の気を引いてしまったことに内心舌打ちしながら、それでも何も言う気にはなれなくて動かした机から椅子を引いてどかりと座った。
「ご機嫌ななめ?」
ぼそりと耳元で囁く水谷に花井は肩だけ竦めてみせる。小声といえど近くで交わされているそのやりとりはもちろん阿部の耳に入ったがいちいち反応する気にもならない。
「ぁあー、今日は帰れ、水谷。明日の単語テストお前やべェだろ」 「ええー!」
確信はないながらも何か良からぬ雰囲気を察知したらしい花井が水谷を説得しようと試みるが、そんな主将の気遣いは少しも通じていないようで相手は派手な声をあげて抗議する。
「だから、」 「なに、どうしたの」
さらに畳み掛けようとする花井の言葉にかぶさるように唐突にあらわれた声は3人のうちの誰のものでもなかった。その穏やかな声音に阿部はバッと顔を上げ、水谷はパッと歓喜に顔を輝かせ、花井はホッと胸をなでおろす。
「栄口、来てたのか」 「うん、教室覗いたら3人で話してるみたいだったから、勝手に入ってきちゃった」 「栄口ー!会いたかったぁ」 「はは、大げさだな水谷。さっき昼休みうちのクラスに来てたじゃん」
じゃれついてくる水谷に笑いかけながら栄口は用意された2つの机とその横につけられた1つの椅子を見て、にこっと笑う。
「席つくってくれたんだ。ありがと」 「おう」 「さっさと始めようぜ」 「ああ、阿部、ごめんね待たせて」
開始を促す阿部に一言詫びて栄口は席に着いた。別にいいけど、と言いながら阿部はどこかバツの悪い思いで栄口を見遣る。と、ふわりと笑顔で返されて思わず目を逸らしてしまう。 そんな阿部を不思議そうに見つめて正面の席に着いたのは花井だ。その対角に特設された栄口用の椅子の隣に、近くから別の椅子を引っ張ってきた水谷が腰を下ろして、ようやく定例のミーティングが始まった。
***
よし、と花井が確認のように副主将陣とついでに水谷を見遣ると、彼らは一様に首をひとつ上下して同意を示した。
「じゃあこれで決まりだな。明日監督に提出する」 「おう」 「うん、そうだね」 「はーい」
各々が返事を返してその日のミーティングは終了した。
時刻は6時を回っていたけれど陽はまだ落ちておらず教室の中にはそこそこ生徒が残っている。7組は明日英単語のテストがあるため居残って勉強をしているのだった。 その片隅で、動かした机と椅子をそれぞれに戻すのを手伝っていた栄口が、あ、と声を上げた。
「そうだ。オレ、阿部に数学教えてもらおうと思ってたんだ」 「え、そうなの?」 「うん。今日シガポの授業で宿題出てさ。わかんないとこあって」 「栄口は文系だからな」
そうなんだよねー、数学って苦手で、と溜息交じりに呟いた栄口は帰り支度をしていた阿部に声をかける。
「阿部、今から時間ある?教えてもらってもいいかな」 「…いいけど」 「よかったぁ」 「お、オレもオレも!」 「お前はまず明日の英単語だろ」
手まであげて主張する水谷にすかさず花井のツッコミが入る。えー!と口を尖らせる子供っぽい仕草にオレで我慢しとけ、と受け流す図はクラスメイトと言うよりは兄弟のようだ。
「あー、じゃあお前ら部室使えば?ここだと英語ばっかで集中できないだろ」
がさこそとバッグの中から部室の鍵を取り出して花井が栄口に受け渡すとすぐさま再び抗議の声が飛んできたが、阿部のうぜェ、という一言にはさすがに水谷と言えどおとなしくならざるを得なかった。
「ありがと、花井。じゃあ水谷、テストガンバレよ〜」 「ありがと栄口!栄口もね!阿部にいぢめられたらオレに言ってね!」
手を顔の横でひらひらとさせてへにゃりと水谷が笑えば、つられたように栄口も柔らかく笑みを返す。
「おい、行くぞ」
そのやりとりに、眉間に皺が寄るのを押さえようともしないで阿部はスポーツバッグを肩に掛けてさっさと教室を後にした。あ、待って!と栄口の声が聞こえていくつかの別れの言葉が後ろで交わされたのち、パタパタと自分の後を追ってくる足音が聞こえてくる。
「…………」
たったそれだけのことでさっきまで苛々していた気持ちが収まっていく気がするのだから、相当まずい。
(…くそ)
追いかけてくる栄口が自分に追いつく前に阿部は大きく溜息を吐く。肺から幾ら空気を出したところで胸の中をうずまく大きなうねりをどうすることも出来ない事をもちろん分かっていたけれど。 |