シーラカンスは目覚めない 2

 

 日当たり良好、風通し良し、更には端っこの一番後ろ。

 

 そんな非のつけどころのない席で栄口は数式と格闘していた。チラリと黒板の上の時計を見れば終了時間まで残り10分を切っている。少し、焦る。シガポの授業は面白いし分かりやすいけれど、時間内に指定された範囲の問題を解き終わらないと宿題になってしまうのだ。

 

 夏の大会に向けて朝の5時から夜の9時まで練習がある野球部員にとって宿題に取り掛かる時間などないに等しい。何とか終わらせなければと必死に頭を回転させるけれど、如何せん、午後イチの授業でこの絶好のポジション。睡魔は容赦なく栄口の頭の中にもやを撒くのだった。

 

 それでも瞼はしっかりとこじ開けて数字の羅列を追う。カチカチとペンシルの芯を出してはしまっている自分に栄口は気づいていない。

 

(最悪、阿部に聞くしかないな)

 

数学が得意な阿部のことを頭に浮かべて、いつの間にか1センチほど出ていた芯をゼロに戻した。

 朝練のあと、栄口と阿部は並んで自転車置き場まで行ったのだが、結局たいした話もしないまま彼は先に部室に向かってしまったのだ。

 

(阿部、やっぱり今日ちょっと変だったよなァ)

 

その時の阿部の様子を思い出して栄口はこつんとペンシルの端を額に当てる。何でもないと彼は言っていたけれど、十中八九、三橋と何かあったんだな、と予測してうーんと手に力を入れた。カチ、と音がして芯が数ミリ先端から飛び出した。

 

 阿部の三橋への気持ちに気づいたのは、何がきっかけだったっけなあと栄口はぼんやり思いを馳せる。実は世話焼きの阿部が、過保護と言ってもいいくらいのその本領を発揮しているのを目の当たりにしたときだろうか。

 普段マイペースな彼が必死に三橋とコミュニケーションを取ろうとしているのを何度も見た結果行き着いた答えだっただろうか。

 

 分からないけれど、気がついたそのとき、思いのほかすんなりと受け入れている自分に驚いたことは覚えている。

 

 男同士とか、チームメイトとか。

 普通ならばもっと違う感情が湧き上がってもおかしくないくらいにはそれは特殊なことで、実際、男同士の恋愛なんてそのときまで栄口の意識の上にのぼったことさえほとんどなかった。

 

(でもなんか…あいつらって微笑ましいっつーか)

 

阿部には特別びくつく三橋と、そんな三橋と少しでも近づこうと努力している阿部。大体、あの阿部が三橋に関しては譲歩しまくっていること自体、ヤツの三橋への特別な何かが伝わってくるよなあ、なんて栄口は知らず目元を優しげに緩める。

 

 そして多分、実は両思いなんじゃないかな、と。考えていたりするのだ。

 

 三橋の行動は突拍子がなくて、彼の思考を推し量ることは難しいけれど、三橋が阿部を全面的に信頼していることは間違いない。そうしてそこに、友情以上のものが秘められている可能性は十分にあるんじゃないかと彼は考えているのだった。

 

 上手く行けばいいなと思っている。2人とも栄口にとって、とても大切な友人だ。

 

 ただ、少し。

 ほんの少しだけ。阿部と自分の特別な距離感がそのことによってなくなってしまうのが、本当にちょっとだけ、寂しくもある。

 

 春休みからの付き合いの栄口と阿部は、他の部員よりもお互いを近くに感じているのを2人とも言葉にはしないけれど分かっていた。それは栄口にとって、気恥ずかしいけれど安心できる、心地よい距離だった。

 

 けれど阿部は以前に比べて栄口と2人で話すことをしなくなった。そしてどこかぼんやりとすることが多くなったように思う。

 

(恋の病…とか?)

 

ぷ、と自分で思っておきながら笑いそうになって、今が授業中であることを思い出す。やべ、と顔を黒板の上に向ける。時計の針はほとんど終了時刻を差していた。

 

 時計と教科書とノートを交互に見遣る。折しも、ちょうど良いタイミングで鐘が授業の終わりを告げた。

 

「はい、じゃあ終わってない問いは宿題ね」

 

志賀の朗らかな声に、ええー、とざわつく1組の中、栄口もまた天井を仰いだ。

 

 自分が彼の気持ちを知っていることを栄口は阿部に言っていない。時が来たら彼の方から言って来てくれるんじゃないかと思っている。阿部が自ら打ち明けてくれたらいいな、と期待している。

 

(よし、残りの問題は分からなかったのと一緒に阿部に聞こう)

 

ついでに三橋と何があったのかも聞いちゃえ、と思いながら、日直の号令に従って起立をした栄口はやけに晴れ晴れとした気持ちで志賀に向かって終了の礼をした。