シーラカンスは目覚めない 

 

 気がつけば目が彼を追っていた。

 

 なんてまるで恋する女の定石のような状況にまさか自分が陥るとはまったく予想していなかった。あまりにも女々しい自分自身に阿部は正直うんざりする。けれどそれは認めないわけにはいかない事実だった。

 

 部活前の短い時間。部活中のふとした瞬間。がやがやと連れ立って帰る帰宅途中。

 

 気づいたら、いつも視線の先には栄口がいた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 強い日差しが容赦なくグラウンド上の少年達の上に降り注いでいた。梅雨明けが宣言されてから数日、暑い日々が続いている。長く降り続いていた雨で潤った土も今は乾いて、部員たちによってよくならされた立派な野球場となった西浦高校第2グラウンドでは今日も朝の練習が行なわれていた。

 

「センター返し!」

「ライト前!」

 

カキン、キィン、という音とともに部員たちの大きな声がグラウンド中にこだまする。2つあるマシーンを使って打っているのは田島と花井だ。その周りでは他の内野手たちがタイミングを合わせて各自大きく振りかぶる。西浦のいつもの練習風景だった。

 

「あ、べく……?」

 

おどおどとした声に呼ばれて阿部はハッとした。いつの間にかフリーバッティングのエリアをぼうっと見ていたことに気づいて焦って声の主の方に顔を向ける。内野手とは離れて、バッテリーはブルペンで投球練習をしていたのだった。

 

「ど、した…の」

「なんでもねェよ!」

 

つい強い口調になってしまって、三橋の体が目に見えてびくうっと震えた。しまった、と思い「わり、ちょっとぼーっとしてた」と笑顔をつくれば、相手はびくつきながらもこくこくと頭を上下させる。阿部はバツの悪い思いをしながらもほっとする。以前の三橋だったら目の端に涙くらいは浮かべていただろうことを思うと、これも立派な進歩だろう。

 

「もう一球投げたらあっち行くぞ」

 

親指を立ててバットとボールがぶつかる小気味良い音がする方へ指先を向けると、三橋は今度は力強く一回、頷いた。その様子によし、とこちらも頷いてミットを構えなおしてサインを出す。

 

パァン

 

以前よりも随分球威を増した三橋のまっすぐがミットを気持ちよく響かせた。その音を戒めのように聞いて、気を引き締めなおした阿部は立ち上がり三橋と連れ立って皆のいる方へと歩き出した。

 

 部員それぞれが、西浦の投手陣である三橋、花井、沖の投げた球を打って、朝練は終了する。その頃になるとほとんど全員が肩で息をして全身にぐっしょりと汗をかいている。特に今日は一足早い夏日で、まだ午前中であるにも関わらず気温が30度近くあった。

 

「あっちー」

「うあー水浴びてー!」

「部室いこーぜ部室っ!」

 

口々に言いあって賑やかに移動する彼らは、練習でへとへとになっているにも関わらず元気だ。アンダーシャツで汗をぬぐったり、帽子をうちわ代わりにパタパタさせたりしながらそれぞれ近くにいる者と言葉を交わしつつ、駐輪場までの短い道のりを歩いていく。

 その中にいて、けれどひとりどこかぼんやりとしている阿部に気づいたのは栄口だった。

 

「よっ」

「……、っ!」

 

ポンと肩を叩かれた阿部はハタと意識を戻して叩いた相手に目をやって、それが彼であったことに一瞬、酷く驚いた顔をした。

 

「なんかぼんやりしてんね、どうかした?」

「……栄口」

 

阿部が驚いたのを自分が唐突に声をかけたからだと思ったのか、その表情には特に言及せずに栄口はにこっと笑う。

 

「三橋となんかあった?」

「三橋?」

 

何でそこで三橋が出てくるんだ、と今度はぽかんとする阿部に、その隣に並んで歩く栄口は額から流れる汗をアンダーシャツの肩口で拭いながらきょとんとする。

 

「あれ、違った?」

「なんで三橋が出てくンだよ」

「阿部が難しい顔してるときは大抵三橋のこと考えてるときだろ」

「はァ?」

 

相手の断定口調に阿部の眉根が寄る。確かに阿部にとって、投手である三橋とのコミュニケーションの取り辛さは悩みの種のひとつだ。けれど、今の彼の悩みにくらべればそんなことはたいした問題ではないとすら思える。

 

 栄口の柔らかな笑みはまっすぐ阿部に向けられていた。その笑顔と彼独特の雰囲気は、思えばいつも阿部の心に平穏をもたらしてくれた。他の部員よりもほんの少しの間だけれど付き合いが長い2人は彼らだけの距離感を持っていて、阿部は存外それを気に入っていた。

 感情をあらわすことも押さえることも不器用な阿部と、その逆の栄口は出会った当初からなぜだか馬が合った。まともに話したのは受験の時だったから、そのときは中学時代に近づく機会がなかったのをこっそり惜しく思ったりしたものだ。

 

 阿部は、確かに以前から栄口のことを好ましく思っていた。

 しかしそれは今抱えているような感情では決してなかったはずだ。

 

 自分を見つめたまま一言も発しようとしない阿部を、栄口はそれでも嫌な顔ひとつせずに見つめ返してくる。先程拭った額の汗はすぐにまた噴き出して、彼の短く刈られた髪を伝って首筋を流れ落ちた。

 

「………」

 

それに、ぞくりとしてしまう自分。

 

「阿部?」

 

思わずバッと顔を逸らすと不思議そうな声で呼ばれる。

 

「…んでも、ねェから」

 

そのままぼそりと言うと、栄口はそっか、と返しただけで他には何も言わないで、近すぎもせず遠すぎもしない絶妙な距離を取りながら駐輪場までの道のりを、ただ、阿部の傍から離れずに歩く。決して押し付けがましくない、彼にしか出来ないその立ち位置。

 

 今までは心地よかったはずのその距離が、けれども今の阿部には少し苦しかった。