夏のためいき 前

 

 大切なものは失くしてから気づくのだと。

 言ったのは誰だったか。

 

 

 ミィンミィン

 

 最後の力を振り絞るかのように蝉がか細い声を上げていた。西浦高校の正門からまっすぐに校舎へとのびている坂道。その脇に茂る木々は未だ青々とした葉をたたえていたけれど、確実に日々は過ぎ、日差しは衰え、そして陽は短くなっていく。

 

 夏に終わりが近づいていた。

 

「暑ィ」

 

拭いても拭いても浮いてくる汗をぬぐうのをもはや諦めて阿部はこめかみを流れ落ちる滴をそのままに自転車を引いていく。もう夏も終わりだというのに今年は残暑が厳しい。とは言え最高気温を更新したとニュースで騒いでいたほどの猛暑だった夏の只中に比べればそれでも十分、暑さは和らいでいるはずだった。時折頬を撫でる風を心地良いと感じる今は、空気でさえも暑かった少し前に比べれば確かにマシなのだろう。

 

 自転車小屋にチャリを収納して校舎へと向かう。つい最近まではこのあと直行するのは部室だったことを思うと拭えない違和感が阿部を取り巻いた。まだ学校が動き出していない時間に来て、鍵を開けたプール横の部室。チャリを飛ばして向かった第2グラウンド。

 

 すべてつい先日まであたりまえのように行なってきたことなのに、遠い昔の出来事かなにかに思えてしまうのが不思議だった。

 けれど今彼の手の中に部室の鍵はなく、スポーツバッグの中身は教科書や参考書類へと変わっている。

 

 高校最後の夏休みは終わった。

 そして彼らの夏も。

 

「阿部!」

 

小さな鍵でカチャリと自転車を固定して歩き出した阿部の背中に声がかかる。振り向いた先にいたのはこの3年間で嫌というほど見慣れてしまった坊主頭だ。

 

「うす」

「うす。なに、お前ももしかして補習か?」

「おう」

「オレもだよ。今までのツケが回ってきたって感じだよなァ」

 

めんどくせーと顔をしかめる花井は汗のせいでズレた眼鏡を直してカバンを持ち替える。最後の試合で素晴らしいバックホームを見せ、チームの窮地を救った彼の肩にはもう使い慣れたエナメルバッグは掛けられていない。

 

 終わったのだ。

 

 阿部と花井の間になんとなく沈黙が落ちる。2人は連れ立ってしばらく無言のまま歩いていたが、やがて花井が手を伸ばして大きく伸びをした。背の高い彼の指先はぐんと空へと近づく。

 

「悔い、ねェなァ」

 

ぽつりと吐きだされた言葉に阿部は何も返さなかった。けれどそれは西浦野球部の3年全員が思っていることだと2人とも分かっていた。

 

「あとはもー勉強するしかねェな」

「ああ」

「阿部は大学行っても野球続けんだろ?」

「続けるよ。花井もだろ」

「まァな。田島と三橋はもちろんやるだろうし」

 

そこで一度、花井は言葉を切った。

 

「他の奴らはどうなんだろうなァ」

「……さァな」

 

淡々と返す阿部を花井はちらっと見遣った。3年間太陽を浴び続けた体は見事に部活焼けしていて、彼の高校生活の重きが何におかれていたかを一目瞭然に物語る。背が伸びて骨格が発達して、阿部は1年の時よりも随分と逞しい男になっていた。

 それだけでも彼が充実した日々を送ったのだということが知れるけれど、花井は、阿部がその代わりに失ったものを知っている恐らく唯一の人物だった。

 

 花井が知っていることを、阿部本人ですら知らない。花井だとて知ろうと思って知ったわけではない。気づいてしまったのだから仕方なかった。

 

「栄口は、国立志望なんだってな」

「…ああ、だろうな」

「野球推薦、来てないわけじゃないんだろ?」

「なんでオレに聞くんだよ」

 

足を止めないままに阿部は花井に睨みを利かせてくる。3年間のうちに迫力を増したそれに、しかし今更怯える花井ではない。後輩には随分と怖がられている阿部の目つきの悪さに未だに怯える3年生は三橋と水谷くらいだ。

 

『阿部はもともとあーいう顔だから、怖がるだけ損だよ』

 

いつだったか、怯える後輩たちにそう言ったのは栄口だった。誤解を受けやすい阿部をよくフォローしていた栄口。そして、内側に溜め込みやすい栄口の本音をいつも吐きださせていた阿部。

 

 花井は阿部の睨みなんてどこ吹く風で見返してジーンズの尻ポケットから鍵を取り出した。

 

「ホラ」

「?」

 

チャリ、と音を立てて花井の指に摘まれた見慣れたそれと花井の顔を阿部は訝しそうに見比べる。新キャプテンから預かったのだと彼は言う。

 

「今日は朝から練習試合だから一日戻らねェんだと。1限数学だからお前出ないだろ」

「出ねェけど…」

「じゃあ部室使えよ」

 

差し出された鍵を阿部は受け取ってしまった。自習をする場所ならば他にもある。わざわざこの暑さの中部室に行かなくても、冷房の効いた図書室を使うという手だってあった。

 けれど思いがけず手の中にもたらされた鍵はしっくりと馴染んで、相手に返す機会を失ってしまう。

 

「窓開けて風入れれば、そんな暑くもねェだろ」

 

手渡された鍵を手のひらでもてあそびながら阿部は頷いた。これを持って部室に行く日がまた来るとは思ってもいなかった。

 

 阿部と花井は、校舎の手前で一言二言交わして別れた。教室に向かう花井に阿部は後で返す旨を伝えてこぶしのなかに金属を握り締めて部室へと向かう。真っ直ぐに歩き出していた阿部は、友がしばらく彼の後姿を眺めていたことに気づかなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 鍵を回して扉を開けた阿部を待っていたのはあらかじめ覚悟していた熱気ではなく、夏の名残のようなしっとりとした暑さだ。北向きに位置していることが幸いして部屋の中は想像していたよりもずっと涼しい。

 ロッカーの前に置かれた細長い机に荷物を置いて一直線に窓へと向かい大きく横に開けば、風が入り込んできて阿部の癖の強い黒髪を揺らした。

 毎日使われている野球部の部室に空気が篭るなんてことはない。窓から入ってきた新たな風はすぐに部屋の中を巡回して、昨日の夜に溜まった空気と入れ替わっていく。

 

 吹き込んで来る風に全身を晒して阿部はひとり窓辺に立っていた。

 その心地よさに秋の気配を感じる。高校最後の夏は、完全に彼のもとから去ろうとしている。

 

 枠の中から上を見た。

 空だけは今もなお高く青く、変わらぬ景色を阿部の目に映させてくれた。

 

『阿部』

 

耳に蘇る彼の声。

 

 分かっていた。

 今ここに来たら、間違いなく栄口のことを思い出すだろう自分を阿部は分かっていてそれでも、花井に鍵を突きかえすことを彼は、しなかった。

 

 阿部と栄口は1年の夏から2年の夏まで、付き合っていた。男同士で付き合うもなにもないかもしれないが、それでも2人の間にはお互いに対する恋愛感情があり、それを伝え合い、分かち合ったのだ。

 それは彼ら以外の誰も知らない、秘密の関係だった。阿部も栄口も、自分たちの立ち位置をよく分かっていたから誰かに漏らそうという気なんてはなからなかった。

 

 密やかに紡がれた日々がとても貴重なもので、そして同時にとても危ういものだったことを彼らが思い知ったのは去年の夏。

 

 阿部は空を見上げたまま目を閉じる。

 いつしか汗は体のどこからも沸いてくることはなく、ただそよ風が彼の肌を上滑る。

 

 去年の今頃よりももっと前、短い初夏が過ぎて暑さが本格的になってきた頃、栄口は、限界かもしれない、と言った。

 

『ごめん阿部。……オレ、限界かもしれない』

 

苦しそうなくせに笑顔をつくって、阿部の一番嫌いな顔で。

 

『……じゃあ別れっか』

 

相手から目を逸らして告げた阿部に栄口はそうだねと言った。

 

 そして2人の関係は終わった。あっけなくも。

 

 何が限界だったのか、阿部は聞かなかった。

 その頃西浦野球部ははじめての後輩を向かえ、夏の大会に向けて部内の雰囲気はどこかぴりぴりしていた。発足1年目で大躍進した部への入部希望者は想像以上に多く、レギュラー争いとはほとんど無縁だった前の年にはなかった確執が生まれるなど、副主将である彼らは野球以外のことに追われる日々に疲弊していた。

 

 特に阿部には三橋がいた。

 ピッチャー志望の1年が自分よりも速い球を投げることにすっかり自信をなくした彼を盛り上げるために必死だった。

 

 へとへとに疲れていた。阿部も栄口も。

 秘密の関係を持っているということが栄口の負担になっていてもおかしくないと阿部は思った。それとも、1年という月日が彼の心を変化させてまったのか。

 どちらにしろ互いの関係が何も生み出しはしないのなら続けることには意味がない。そう思って自ら切ったのだ。あのとき、彼に他のどんな言葉もかけずに。

 

 忙しさも疲れも確認を怠った言い訳にはならない。

 そのまま夏の大会を向かえ、終わって新学期になる頃には2人の間には2人しか分からない明確な距離が出来ていた。

 

 目を開ける。

 空は先程から少しも変化がない。熱の塊を探したけれど見当たらなかった。

 

 栄口は国立志望なのだという花井の言葉を阿部は思い出す。

 彼の家は裕福ではないので学費の安い国立に行こうとするのはいかにも栄口らしかった。

 真面目で物分りの早い栄口は決して勉強が苦手ということはないが、高校生活のほとんど全部を部活につぎ込んだ代償は大きいだろう。

 

 件の数学の補習にもしかしたら栄口も来ているかもしれないと思う。さっき自分が通った正門をくぐって、坂道をのぼって、自転車小屋でチャリを止めて。彼もまた空を仰ぎ見て去る夏と忍び寄る秋を感じ取っているのかもしれなかった。

 

「…………」

 

思い出すときの栄口はいつも笑っているのが阿部は不思議でならない。喧嘩だってしたし、傷つけたこともあったし、去年の夏の前なんて本当にひどい状態だった。

 それでも阿部が独り思い出すときの彼は、あの耳に心地良い高めの声で嬉しそうにはにかみながら微笑むのだ。

 

『阿部』

 

 なァ栄口。

 お前今なに考えてる?

 

 ギィ…

 

 阿部がちょうど背を向けるかたちで立っていた部室のドアが開く音がしたのはそのときだった。物音に何気なく振り返るその目に飛び込んできた人物を見て阿部は目を瞠る。

 

「栄口………」

 

呼ばれた栄口はドアノブを握ったまま、声もなくただ、呆然と阿部を見ていた。