夏のためいき 後

 

 ドアを開けて飛び込んできた後姿に息を呑んだ。

 呼ばれた名前に、心が震えた。

 

 

 「栄口」

 

大きく目を瞠る黒目が栄口に真っ直ぐに注がれていた。ぎゅっとドアノブをきつく握り締めて、栄口は後退しそうになる足を叱咤する。笑みを顔に乗せる。上手く笑えているかは分からなかった。

 

「阿部も来てたんだ。やっぱり補習?」

「……おー」

「そっか、オレも」

「花井もいた。あいつ次の数学出るって」

「うん、知ってる」

 

ドアを閉めて奥へと進む。出るための上手い言い訳が思いつかなくて仕方なく机の上に荷物を置いた。阿部が立っている窓際から吹いてくる風が部屋の中の温度を下げているのか、部室の中は外よりもずっと涼しかった。それなのに手のひらは冷たく湿っている。

 

 阿部と2人きりなるのは本当に久しぶりだった。

 

 自分たちがお互いを向き合っていた頃はよく、2人で部室にいたなと栄口はふと思い出す。部活の後、朝練の前、もしくは昼休み。副主将だった阿部と栄口が頻繁に一緒に部室に足を運ぶことをいぶかしむ者はいなかった。同じ中学出身であるという事実も彼らには都合よく働いていたのかもしれない。

 

 今阿部がいる窓の前に2人で身を寄せ合って立っていたこともある。栄口が窓から外を眺めていると後ろで部誌を書いていたはずの阿部がいつの間にか後ろへ来ていて、突然抱き締められて驚いたことも一度や二度ではなかった。

 2人きりの時の阿部は触れたがりで、栄口はよく無理やり抱き締めたりキスしてきたりしようとする彼を押しのけたものだ。

 

 それも、去年の春までの話だけれど。

 

 栄口は椅子を引いて長机の端に座った。

 これが今の、阿部と自分の距離だと頭の冷静な部分で思う。

 

「阿部は数学、出ないんだ?」

 

机に置いたカバンを開けて筆箱やらノートやらを取り出しながら尋ねると彼はああ、と短く答えた。

 

「……お前は?数学苦手じゃなかったっけ」

「うん。でも今日やるところはそんなに苦手じゃないから」

 

だから自習、と言いながらシャーペンを持つ。もう勉強に入るよ、というそれは無言の合図で、阿部ならばそれを的確に受け取るだろうと思っての行動だ。

 案の定、カリカリと音を立てはじめると阿部はもう何も聞いてこなかった。教科書を読みながら重要事項をまとめていく。本当は数学をやるつもりだったけれど急遽日本史に変更した。

 年代と出来事を確認してノートにメモしていくその間も阿部が自分を見ている視線を嫌というほど感じたけれど、気づかない振りをした。

 

 頬杖をついてパラリ、とページを捲る。

 ふと顔を上げて窓際を向いてしまった。無意識の行動に栄口ははっとするが、阿部はこちらを向いてはいなくてほっと胸を撫で下ろす。

 

「………」

 

窓の外を向いている阿部の顔は1年の頃よりも精悍さを増して、男の顔つきになっているように思えた。この3年間で阿部は変わったなと栄口はそっと彼を眺める。外見もそうだけれど、内側も。

 

 思えばままごとのような関係だったのかもしれないと、栄口は阿部と自分の2年前を思い返す。阿部が好きで、阿部も好きだと言ってくれてそれが一番重要だと思っていた日々。

 阿部が自分を必要としてくれることが嬉しかった。普段はオレ様と言われてさえいた阿部が時折甘えてくる度に甘い疼きが胸を突いた。

 幸せだったのだと思う。長くは続かなかったけれど。

 

 あの頃のことを思い出すのは、栄口にとって今でも少し辛いことだ。

 新しい学年。新しいチーム。新たに入ってきた後輩たち。そのあおりを一番食らったのはおそらく、主将である花井と副主将である阿部と栄口だったろう。

 野球以外のことに割かれる時間を苦だと思ったことはないけれど、複雑化した人間関係は多少なりとも彼らの精神を苛んだ。

 

 そして。

 

 栄口はふっと目を伏せる。

 

 ―――――三橋。

 

 阿部を変えたのは、間違いなく三橋だろう。

 自己中心的な面の強い阿部を他者のことが考えられる男にしたのも三橋で、頼りがいのある面を一層強くしたのも三橋だ。

 

 阿部の一番近くにいたのは自分だったはずなのに、彼に影響を与えるのはいつだって三橋だった。

 そして阿部も、出来る限り、三橋のことを最優先した。

 

 それが顕著に現れたのが去年、ピッチャー志望の新入生の速球の速さを目の当たりにした三橋が自信をなくして、ぼろぼろになったときだった。

 

『ごめん阿部、……オレ、限界かもしれない』

 

彼に言った言葉は本心以外の何者でもなかった。けれどそれは阿部を試した言葉でもあったことを栄口は自覚している。

 

 限界だった。

 三橋につきっきりの阿部を、彼の為に動き回る阿部を。

 許容出来ないほどにあの頃の栄口の神経はすり切れていた。阿部が必要としているのは自分ではなかったのだと思った。それが悔しくて悲しかった。

 

 あの言葉は栄口の最後のSOSで、阿部はそれに答えを出した。

 そうして2人の関係は終わりを告げたのだ。

 

 ぎゅっと目を閉じる。気づけば息を詰めていてふう、とゆっくりと吐き出す。力を抜いて目を開いた。

 

「!」

 

それなのにすぐに栄口の体はまた強張る。

 

 阿部が、いつの間にか一直線にこちらを見つめていた。窓の外の背景を背にしてゆっくりと彼は動き出す。自分の方に歩いてくる阿部を栄口は、驚きをもって見つめる。逃げ出したいのに体が動かない。

 

「お前さ、国立行くんだって?」

「え?あ、ああ」

 

思ってもみなかったことを聞かれて一瞬何のことだか分からなかったが、すぐに進路のことだと理解した。拍子抜けしたと同時にほっとして栄口は頷く。

 

「うん、そう。行けたらって思ってる」

「野球は?」

「え?」

「続けんの」

 

その問いにはすぐには答えられなかった。

 

 野球は好きだ。

 楽しいことばかりじゃなくても、悔しい思いをたくさんしても、それでも栄口は野球が好きだ、と心底思う。

 

 でも。

 

「西浦に来てさ、オレほんとに良かったと思ってんだよね」

「あ?」

「すっげェいいチームに恵まれてさ。自分では信じられないような経験もして」

「………」

「でもさ、だからこそ。ここ以上の場所なんかあんのかなって、ちょっと思ってる」

 

阿部は栄口の隣にある椅子の背に手を掛けて立ち止まった。何も言わずに見つめてくる表情からは感情を読み取ることは出来ない。こんなに近くに阿部がいるのも久しぶりかもしれないと、全然関係ないことを考えながら栄口は笑った。

 

「オレにとって西浦は最高の場所だったよ」

「………んな」

「え?」

「ふざけんな!」

 

突然目の前の相手に怒鳴られて栄口は驚いた。ついさっきまでは無表情だった阿部の顔が見る見るうちに怒りの形相に変わっていく。

 

「な、に、怒ってんの…」

「てめェの中では全部終わってンのかよ!」

「?!」

 

阿部の怒りの矛先が何にあるのか分からなくて栄口は動揺する。ギリッと椅子の背を握り締めてダン!と反対側のロッカーを叩く阿部に驚いてびくっと体が震えた。見開いて相手を見つめる栄口の目に映るのは阿部の熱っぽい眼差しで。

 

「ここでの野球も、……オレらのことも」

「え…」

「そんな何もかも終わったみたいな顔で笑ってンじゃねェ…!」

「あ、べ?」

 

何が何だか分からなくて栄口は混乱する。オレらって、オレと阿部ってこと?終わったって、そんなのもうとっくに…。何?何が言いたいんだ阿部は?!何をそんなに怒って…。

 

「栄口」

「は、はいっ」

 

ぐるぐるする思考の最中に名前を呼ばれて思わず大きな声で返事をしてしまう。ピンと背を伸ばして阿部と向き合った栄口に阿部はとんでもないことを言いだした。

 

「抱き締めたい。つか、抱かせろ」

「………?!」

 

あまりの衝撃に言葉が何ひとつ出てこない。その間にも栄口に近づいてきた阿部がぐいっと肩を押してきて、ハッとする。

 

「なっ、お前…っ、何考えてんだよ!」

「うっせェ!」

「はァ?!ちょっ、やめろよっ!もうオレらそーゆー関係じゃないじゃん!つか阿部が別れるって言ったんだろ!」

 

慌てて相手の手首を掴んで離そうとするがびくともしなくて、栄口は、3年の間に随分と離れてしまった阿部と自分との体格差を改めて思い知らされて歯噛みする。

 しかしふっと、栄口の肩を掴んでいる手の力が和らいだ。不思議に思って阿部を見返すと、呆然としている彼の顔に行き当たって栄口はえ、と思わず椅子の上で体を引いた。

 

「お前、今…何つった?」

「?」

「オレが別れるって言ったって」

「……言ったじゃん。あの時」

「アレはお前が限界だって…」

「でもオレは別れたいなんて一言も言ってない」

 

睨まれているかと思うほどの眼光で自分を見つめる阿部を、栄口は冷静に見返す。阿部が別れると言って2人の関係は終わった。それは覆すことなんて出来ない、自明の事実だ。

 

 阿部はしばらく何も言わずに、それこそ呼吸を止めているんじゃないかと思うほど身動きひとつせずに栄口を見つめていた。そしてすう、と何かに気づいたように一瞬眉を寄せる。

 

「栄口」

「……なに」

「お前今、なに考えてる」

「さあ…」

 

栄口は自分を一心に見つめてくる阿部を見上げたままふっと鼻で息を吐いた。

 

「阿部と同じことじゃない」

「………」

 

肩に置かれた手に再び力が入る。けれどそれは先程とは違って随分と優しい力だった。見詰め合う阿部と栄口の視線の距離は徐々に徐々に縮まっていったけれど栄口は今度は、その手を振り払いはしなかった。

 

 触れた唇の冷たさに涙が出そうになる。

 

 阿部は栄口の唇を何度か啄ばむようにつついて、そうして少し口を開けて唇全体を丹念に吸い取る。阿部の口も舌も相変わらずで、それが栄口の胸の奥をぎゅっとさせた。

 

「何泣いてんの」

「うるさい」

 

阿部が口を離してからかうように言うので、相手の顔を押し返して代わりに胴体に抱きついた。最後に触ったときとは違う、男の体に少しだけどきりとしたけれど勘付かれるのは癪だったのでぎゅっと腕を背中に廻すことで誤魔化した。そのまま顔を阿部の胸に埋めてしまえば涙云々も見えないだろう。

 

「栄口」

「ん」

「野球、続けろよ。推薦だって来てんだろ?」

「………」

「国立行くなら行くでいいけど、野球は続けろよ」

「なんでそんなこと」

「だってお前野球すげェ好きじゃねェか」

「!」

 

阿部には言われたくないとか、何でそんなこと今言うんだとか、言いたいことはたくさんあったけれど胸がいっぱいで、何でだか分からないけれど苦しいほどに胸がいっぱいで、結局栄口は小さく頷いた。

 

 自分たちが同じ大学には行かないだろうことを2人ともよく分かっている。理系と文系という点で既に、その可能性は絶望的だ。けれどそれで構わないと思う。

 大学が違っても、進路が違っても、野球をするチームが違っても。

 

 自分たちにはまた同じ夏が巡ってくるだろう。

 去年とも、その前とも違う、だけども確かに同じ夏が。

 

 それで十分だと、そう思った。

 

 

 

 

 

FIN