月ノ裏側ユメ狭間 

 

 

 

 

 

 そよぐ風が黒い髪をなびかせて特有のくせ毛がいっそうに絡む。けれどその人はあちこちに跳ねて揺れて動く髪を押さえようともしないで少し顎を引いた体勢で笑顔を見せる。一言二言。口を動かして声を上げて笑う音が、昼夜を問わず騒がしい血盟城とは違って昼間もどちらかと言えば閑静なその場所に小気味よく響く。

 

 そのさまを、有利は眩しげに見つめた。

 

 ゆっくりと、まさしく亀の歩みとでもいうくらいに緩慢に足を動かして近づく有利に気づいたのは、その笑顔を向けられていた少女の方だ。

 

 あら、という形に口が動いてこの社の主といっても過言ではない見た目には可愛らしい巫女が深々と頭を下げた。それに呼応するように彼の顔がこちらを向く。

 

 彼は少しだけ目を見開いてすぐに目を細めた。口角も僅かにあがる。

 村田独特の笑い方だ。

 

 有利は手を上げて二人に答えながら、村田の笑い方は昔からちっとも変わらない、と思う。自分達が再会し、互いの信じられない秘密を分かち合い、そして共に戦った、あの日々から、すこしも。

 

「随分と早く仕事を終わらせたんだね」

「ギュンターに任せてきたからな」

「気の毒に」

「だって、」

「?」

 

途中で言葉を止めた有利に村田は首をやや傾けた。けれどぽろりと出てしまった子供っぽい言い方と、それに続く言葉を口にすることはさすがに憚られて、結局声には出さなかった。

 

(だってお前が、眞王廟にいるって聞いたから)

 

けれど、渋谷、と村田が呼ぶ。それは以前よりも少し低く、そして変わらずに落ち着いた声音だ。なにもかも見通しているようで、だけども肝心なところではそうではなくて、そして全てをさらけ出してしまいたくなるような。

 

 有利の好きな声。

 

「なんでもない」

 

いよいよ訝しげに眉を潜める相手にしかし胸の内を吐露することはしない。無言で彼の手を取って頭垂れるウルリーケに手短に挨拶してからそのまま、その手を引いた。

 

 魔王になって数年。

 有利はとうに自分の感情を自覚していた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 双黒の大賢者である村田健に眞王廟であてがわれた部屋はこの建物の中で一番広いくせに何もない。一目で高価だと分かるような代物は大きなベッドくらいであとは目利きが見れば唸るだろうけれど、傍目には至ってシンプルな家具が必要最低限、並んでいる。それは物足りなさを感じさせるというよりは彼に非常に似つかわしいと言えた。

 

 その、勝手知ったる他人の部屋の居心地の良いソファで有利がくつろいでいるとトレイに茶器をのせた村田がやってきて隣に腰掛けた。

 

「サンキュ」

「今日はカモミールだよ。魔王陛下は執務続きで疲れているんじゃないかと思って」

「あーなんかそれ聞いたことあるな。疲労回復にいいんだっけ?」

「さあ。僕も良くは知らないけど」

「良い香りだな」

「そうだね」

 

実際、クリーム色のその液体は見た目にも優しそうで喉を通って体内を癒してくれそうに見えた。

 

「ちなみに僕はアップルティー」

 

隣では同じように村田がカップを顔の位置まであげて温かな香りを楽しんでいた。

 有利はお茶を味わう振りをして、目を瞑って湯気に鼻をさらす傍らの人物を盗み見る。湯気で眼鏡が曇り気味だ。

 

 もう少年と呼ぶには顔立ちが大人びてしまった彼だけれど、瞳を閉じてその眼差しが隠れれば少しだけ幼く見えるような気もする。きっとそれを相手に言えば、有利の方が目を閉じても開けても十分に少年と言えるくらい童顔だと彼は言うのだろうけれど。

 

「渋谷、見すぎ」

「げっ」

 

気づいていたのか、とやや慌てる。閉じていた目をぱちりと開けて村田は黒目だけを動かして悪戯っ子のような笑みを有利に向けた。

 

「君にまで眞魔国の美意識が移っちゃった?」」

「だったらその前に俺はナルシストになっちゃうだろ」

「違いないね」

 

けらけらと相変わらずの品のない笑い声を上げて村田がカップを口にあてがったので、有利もつられて入れてもらったお茶にありがたく口をつける。見た目どおりの優しい味だった。

 

「つか、村田、隈出来てる」

「分かっちゃった?」

「寝てないのか?」

「まあ、あんまり」

 

自分の飲んでいるものは村田にこそ必要なんじゃないかと思いながら有利はカップを膝の位置にあるテーブルに置いて、トントンと片手で自分の肩を叩いた。

 

「ほら、寝ろ」

「えー」

「なんならこっちでも」

 

言いながらポンポンと今度は両手で膝を叩く。

 

「君、いつからそんな恥ずかしい子になっちゃったのかな」

 

やれやれと大げさな溜息をついて、けれど村田はコトリと持っていた器をテーブルに置いておとなしく有利の側に重心を傾けた。

 

「あー恥ずかしい」

 

なんて言いながらもトンと肩に頭を乗せてくるあたり、本当に睡魔に襲われているようだ。言った有利の方は予想外の展開に実は置いていかれ気味だったりするのだが、すぐに聞こえてきた寝息らしきものに最終的には呆れてしまった。

 

 よほど疲れていたのだろうかと思うのと同時に、有利は斜め下の寝顔を険しい表情で見つめる。

 村田は時折、意識が抜け落ちたように一瞬のうちに眠りにつくことがあって、それは最近始まったことではない。そしてそれに付随して起こる事を有利だけが知っていた。

 

 閉じた瞼から伸びる長い睫毛が痙攣するように揺れた。眠りに落ちてすぐだというのに夢でも見ているのだろうか。無意識に手が肩口の頭へと伸びていた。

 

「それに触れるな」

 

しかしどこからともなく聞こえてきた声に、有利の手は止まる。きた、と彼は思う。

 

「黙ってろよ眞王」

 

一度は止まった手を再び動かそうとするが、体が言うことを効かなくて有利は内心舌打ちする。くっくっ、と今度は目の前で空気が揺れた。有利は盛大に顔をしかめながら村田の寝顔を見ていた顔を上げた。

 

 村田の体のすぐ後ろ、その男は悠然と笑みを湛えてたたずんでいた。いや、たたずんでいるという表現は語弊があるだろうか。彼の後ろで形を成している男の体はその存在感とは裏腹にもやがかかってでもいるかのようにおぼろげだ。一目で血肉あるものではないと分かるほどに。

 

「随分な言い草だな?目上に対する礼儀も知らないのか」

「あんたこそいい加減大人気ない行動はやめろよ」

 

現魔王である渋谷有利は眞魔国の始祖である男を萎縮もせずに真正面から見据えた。いつ会ってもいびつに歪む口の端が気に食わない、と有利は心底思う。

 

 そう、男に会うのははじめてではない。

 有利の前に彼が現れたのは有利が村田の助けを借りて自分の強大な魔力をコントロール出来るようになった頃とほぼ同時期だ。村田が有利のために力を使いすぎて、失神するように眠りに落ちた後、彼は現れた。それからずっと、村田が意識を失うように眠りについたときにのみ、男は現れるようになったのだ。

 

「大人気ないとは言ってくれる。この者は俺のものだ。触れるのならば許可を得て欲しいところだな」

 

請うたところで許可などする気もないくせに王は言う。

 

「村田を物みたいに言うな」

「ふん、大賢者は魂ごと俺のものだと前にも言ったはずだが?」

「あんたの賢者は知らねーよ。でも、村田は村田だ」

「やはりつまらんガキだな」

 

堂々巡りだ、と有利は嘆息する。同じようなやりとりを今まで何度繰り返しただろうか。彼は彼の主張を決して譲らないし、有利もそれを認める気など微塵もない。

 

「現、魔王陛下よ。せいぜい賢者を大事にすることだ」

「当たり前だろ。旧、魔王陛下」

 

ぴくりと目の前の男の眉が不快に歪んだ。有利は構わずに言葉を続ける。眠る村田の体がもぞりと動いたのが触れ合っている有利には分かった。

 

「俺にとって村田は賢者じゃない」

 

あんたにとってあんたの賢者はそうじゃないのか?

 

声には出さずに問うけれど、届く前に忽然と男の姿は消えていた。同時に、もぞもぞと先程よりも大きく肩に乗っていた頭が動く。

 

「起きたか?」

「……ああ、渋谷。僕寝てた?」

「相変わらずの瞬寝っぷりだったぞ」

「はは。あーでも少しスッキリしたかも」

 

そっか、と有利は村田の癖の強い髪を撫でる。

 

「会議まではまだ時間あるから、もう少し寝てろよ。起こすから」

「悪いね。渋谷も寝ていいよ。僕は寝過ごしたりしないから」

「どうだか」

「少なくとも君よりは寝坊助じゃないさ」

「言ったな?」

 

目を閉じたままに軽口を叩く村田に同じく軽い調子で返しながら、彼の眠りが未だ訪れていないことを有利が内心でひどく安堵していることなどもちろん村田は知らない。

 

 やがて他愛もないおしゃべりは村田の規則正しい吐息によって終わりを告げる。けれど、彼の癖毛に指を通しながら吐く有利の溜息に未だ終わりは見えなかった。