これはまだ彼が何も知らなかった頃の話。

 二人は同級生で中学の頃同じクラスであったということ以外、特別に名前がつけられるような関係では一切ないと思っていた頃の。

 素知らぬふりをしながら渋谷有利が村田健を、自分でも気づかぬままに見つめていた、彼がただの高校生だったときの話。

 

 

 

 

 

 

同級生 

 

 

 

 

 

 

 陽の落ちかけている放課後の校舎の中を、渋谷有利はグラウンド目指してひた走っていた。廊下の壁に貼られた『廊下を走らない!』という文字は今の彼の目をいとも簡単に素通りする。

 2時間もマンツーマン補修を受けさせた数学の鬼教師に胸のうちで悪態をつきまくりながら有利は廊下の角を曲がる。

 とりあえず直線を猛ダッシュしてもうひとつの角を曲がったらすぐ部室、というところで耳に入ってきたパンッという物騒な音に、しかし思わず彼は足を止めてしまった。

 

 音のした方に顔だけ向けると、奥に見える階段の裏側から何やら言い争いのようなものが聞こえてくる。その剣呑とした雰囲気に、彼の性が吸い寄せられる。人一倍正義感の強い少年であるため、ほとんど無意識に体が声の方に動いてしまった。

 

「俺の気持ち、そんなに迷惑か?」

 

しかし、不意に聞こえたはっきりとした声に再び有利の足はその場に縫い付けられた。

 

(………ええと)

 

背中に何やら嫌な汗をかきつつ、少年は自分の的外れな正義感を心底恨んだ。喧嘩なら割ってはいることも出来る。暴力はどんなときだって反対だ。しかし、さすがにこれはいささか事情が変わってくる。

 

(てゆーか、ここ男子校だしぃー!)

 

誰に突っ込みを入れていいやら分からず、有利は無言で悶えた。男子校といえば男の花園、秘密の花園。そういう類の恋愛が存在することは無論有利だって知識としては知っているが、直に見るのと人づてに聞くのとでは衝撃度が全然違う。

 そしてその点に関して全く無防備そのものである有利に新たな衝撃が襲った。

 

「………普通、いきなりキスされそうになったら誰でも嫌がるんじゃないかな」

 

(……………)

 

もはやどうコメントしていいかも分からずに少年は呆然とした。真っ白になってしまった頭の中には彼らの声すら届かない。

 

 先方はというと、有利のフリーズ状態などお構いなしに、階段に阻まれた向こう側では変わらず黒い影が動いている。さっきより若干激しくなった動作から察するに、男の一人は焦れているようだ。

 前にも後ろにも進めない哀れな子羊であるところのユーリは、そんな様子をぼうっとただ視覚だけで受け止めていた。………脳が現状を把握することを拒否しちゃってるらしかった。

 

 永遠に続くかに思われた少年の放心状態はしかし、片方の少年の凛とした声音によって幸か不幸か、終わりを告げた。

 

「離してくれないか」

「ッ、」

 

ビシリと拒絶の言葉を向けられた相手が息を呑む動作が離れた場所にいる有利にも分かった。実際その口調は、思わず一瞬息を止めてしまうほど憤りに満ちているように思われた。

 

「僕は君を好きじゃない」

 

きっぱりと告白された側なのであろう少年が告げる。もはや相手は返す言葉を持たないのか、もう一人の方の声は一切聞こえなかった。

 

 その声に聞き覚えがあると思ったのと、その声に先ほどにはない違和感を感じたのはほぼ同時で、そして前者の方に強く意識が行ってしまったため、有利は後者を考える機会を逃してしまった。

 

「………村田健」

 

ぽそりと呟いて、はっと両手で口を覆う。息を殺して様子をうかがうが先方がこちらに気づいている気配はまるでなく、有利はほっと胸を撫で下ろした。

 

(村田健だ)

 

有利はもう一度、胸の奥でその人の名を繰り返した。友達というほど親しくはないが、名前と顔くらいは知っている。中学の頃はクラスメートだったので、会話をしたことだってあった。

 と、いうよりも、この学校で彼のことを知らない人はそうそういないというほどには、村田健は有名人だった。

 

 中学の頃から学校が始まって以来の秀才と呼ばれていた彼は、高校に進学してからもその名に恥じることなく、全国模試では相変わらずの天才振りを発揮していた。

 校内の試験に至っては彼は100点以外を取ったことがないと噂されるほどだ。そんな彼がなぜ都内屈指の進学校を蹴ってそれなりの中堅校でしかないこの学校を選んだのかは定かではない。

 

 家から近いからだとか好きな人がこの学校を選んだからだとか中学の教師へのあてつけだとか、まことしやかに噂だけは一人歩きしているが真相は闇の中である。今のところ「家から近い」説が有力視されているが、まあ妥当な判断といえる。

 そこまで聞くとどこのガリ勉君かと思うが、実際の村田健という人物はそうではないからこそ、これほどに有名人であるのだろう。

 

 中学の頃の女子曰く、「大人っぽい」・「知的な顔が素敵」・「クールな瞳に見つめられたい」・「頭脳系爽やか」・「笑うとかわいい」・「眼鏡!」などなど、その容姿も少女たちの心を掴むくらいには印象的なのだった。

 

(しかし男にまで人気があるとは…)

 

秀才の名は伊達じゃない、とか的外れなことを思いながら有利はひとり頷く。そっち方面にとんと免疫のない有利には、彼のような優男風の姿形が一部の男子に絶大な人気を誇ることなど、無論知る由もないのである。

 

「あれ、渋谷」

「やー、人気者は大変……ってエェ?!」

 

突然、当の本人である村田健から声をかけられて有利は漫画のように飛び退いた。どうやら一人悶々と考えを巡らせている間に彼らの間のケリはついてしまったらしい。

 

「や、これはその、偶然ってやつで…!!」

「?」

 

慌てふためいて弁解をする有利に、秀才少年は眼鏡の奥の涼やかな瞳を不思議そうにパチパチとさせて彼を見つめてくる。

 

「別に覗き見をしていたわけでは決して!!」

 

が、支離滅裂に墓穴を彫る有利に村田少年はああ、と納得が言ったという風にこくこくと軽く首を上下した。

 

「告白現場見られちゃった?」

「………や、その、あー……すみません…」

 

小首を傾げる、優等生らしからぬ可愛らしい仕草に有利は妙に戸惑ってしまう。結局あれこれと言い訳を考えるが思いつかず、素直に謝ると、相手はカラカラと笑った。

 

「いいよ別に、気にしないで」

「はあ…」

 

一笑にふされてしまうとそれはそれで何となく気まずい。相手の、告白された後とは思えない冷静な様子に内心有利は驚いていた。まさか彼にとっては日常茶飯事なのだろうか。

 

「……慣れてるのか?」

「え?」

 

そして思ったことを口に出してしまう、単純一直線な有利少年は、しかしすぐにそれを後悔した。

 

「ああ、まあね」

 

言って村田はただ笑っただけだった。けれども有利は、とても悪いことをしたような気分になってしまう。

 

「ごめん」

「…何が?」

 

再び素直に思ったことを言葉にしてしまう自分に言った後で呆れつつ、有利は彼特有の真摯な目で相手を見た。

 

「何か、人の心に土足で踏み込むのは良くないっつーか…」

 

申し訳ないような気持ちになったのは事実だが、その理由を聞かれるとうまく説明できなくて有利は村田を見つめたまま言葉を濁らせる。

 

 するとそんな有利を見て、ふっと前触れもなく村田が頬を綻ばせた。

 

「渋谷は優しいね」

「………え」

 

彼の表情と言葉に、すぐには反応を返すことが出来なかった。

 

「ところで渋谷、部活行かなくていいの?」

「っああ!!」

 

村田の言葉に有利は我に返る。

 慌てて時計を探すが廊下にそんなものがはるはずもない。

 

「今6時だから、急げばあと1時間くらいは出来るんじゃない?」

 

すると阿吽の呼吸で隣から欲しかった答えが返ってきた。よし、と有利は戦闘態勢に入る。もはや諸々の思考は野球という二文字の前に彼の中から吹き飛んでしまった。

 

「サンキュ、村田!じゃあな!」

「うん、じゃあまた」

 

口の端を上げてひらひらと手を振る少年をその場に残して有利は走り出した。角を曲がる瞬間、何となく横目で後ろを見ると、逆方向へ歩いていく村田の後姿が視界に入った。

 それをどこか遠く、寂しく感じるけれどもその理由の答えを今の有利は持たない。

 

 村田少年が有利に見せた、すぐに反応を返せないほどドキリとする表情を思い出して彼が人知れず悩むようになるのは、もう少し後の話であり、有利が自分の出生の秘密を知り、また村田の魂の秘密を知るのは、更に先の話になる。