近いけれど遠い

 

 

 

 

 

 あまり人の通らない、外に面した回廊の縁に手をおいて何とはなしにヨザックは外を眺めていた。肌に空気が触れるたび、ぴりぴりと痛む。 

 眞魔国の短い夏はとうに過ぎていた。けれど雪が降るほどには寒くない。

 

 静かだった。

 

 元気いっぱいの魔王陛下の声も、その隣にいつもある甲高いソプラノの金切り声も、錯乱寸前のヒステリーな声も今はない。皆で近くの領地に視察、というよりも観光に行っているためだった。

 

 本来ならば、年若い王の護衛を担うのはヨザックの仕事なのだが、今回は閣下と魔王補佐という、腕っぷしに非の付け所の無い二人が一緒なので彼はお役御免なのである。

 降って湧いた短い休みを嬉しくも、また何となく寂しくも思う自身にヨザックは胸中で苦笑いをする。

 王の周りはいつも明るい。普段、どちらかというと裏で動くことの多いヨザックにとってそれは新鮮な体験なのだった。

 

 たった三人いないだけで血盟城内は常にはない平和と平静に満ちていて、それは今の彼にどこか物足りなさを感じさせた。

 

 ゆるやかだけれど厳しい風に髪を若干揺らされながら、そんなことをつらつらと考えていると、中庭を挟んだ向こう側にある回廊を見慣れた影が過ぎった。その特殊な姿形に吸い寄せられるようにヨザックは目を向ける。

 

 現在の眞魔国の、双黒の大賢者であるところの美しい少年が、彼の双黒に良く似合う黒衣を纏ってゆっくりと歩いていた。その姿は実に至高の芸術品だとて見劣りしてしまいそうなほどで、改めてかの人を観察すると、なるほど双黒を皆がこぞって欲しがる気持ちも良く分かる。

 

 まじまじと眺めていると、不意にその人物の顔がこちらを向いてヨザックは固まる。しまった凝視しすぎたか、と思うがもう遅い。もう少し見ていたかったけれど、相手がふわりと笑ったので敬礼で返した。

 

「猊下、どちらへ?」

「部屋に」

 

短く答えた彼から漂う、どことなく疲弊した風情に、知らず縁をひょいとヨザックは飛び越えた。予想外の行動だったのか、賢者がこちらを見て動きを止めている間に中庭を駆け抜けた。

 足には自信がある。ヨザックと村田の間はすぐに縮まった。

 

「どうかされました?」

「何が?」

「元気がないような気がしたんで」

 

言うと、彼はくすりと笑う。

 

「君は足が速いね。うらやましいな」

 

唐突に話題が変えられるが、ヨザックは驚かない。こういうときの彼は会話をしながら質問にどう答えるべきかを計算しているのだ。つまり、質問はあまり彼にとって好ましくないものだったらしい。ヨザックは自身の直感が正しかったことを知る。何か良くないことがあったのだろうか。

 

「元気がないということはないよ」

 

答えを返さないヨザックに観念したのか、村田は少し肩をすくめて苦笑する。

 

「君はいつも渋谷の隣にいるから、明るい雰囲気に慣れているのかもね。僕はいつもこんな感じだよ」

「しかし、顔が疲れてますよ。それに黒衣を着るなんて珍しい」

「………まったく、有能すぎるのも問題だよ」

 

痛いところを突かれたと言うように村田は顔をしかめる。事実、双黒の大賢者として魔王陛下と唯一対等の扱いを受ける彼は、その特別扱いをあまり好まない。

 それを誇示するような黒を身にまとうことなど滅多にしないし、ひどいときには、どんな手を使っているのか定かではないが、髪や目を全く違う色にして臣下の間に紛れ込みさえする。

 そんな彼が黒衣を着ていることにヨザックははじめから違和感を感じていた。もちろんその姿自体は、この世の中で右に出る者はいないのではないかと思うほどに美しいのだけれど。

 

「諸侯に会っていたからね」

「諸侯に?」

 

そう、と面倒そうに頷く賢者になるほど、とヨザックは理解した。

 

「坊ちゃんがいない間にですか?」

 

したり顔で探りを入れると、綺麗な眉根がギュッと寄った。

 

「……いないから、だよ。分かってるなら聞かないでよ」

「坊ちゃんは王にしてはお若いですからね。まーだ駄々こねる輩がいるんで?」

「そういう訳じゃないけど、まあ、威厳はないよりあった方がいい」

 

ため息混じりに言う彼は、見た目は魔王陛下と同じようにただの美少年にしか見えないのだが、やることはなかなかえげつないなとヨザックは内心感心していた。

 

 ユーリは王にしては若すぎるきらいがある上に、この世界のことをほとんど知らない。双黒を身に宿し、潜在魔力が桁外れなので彼の資質の底知れなさは言うまでもないが、頭の固い連中というのはどこにでも存在する。

 しかし、「双黒の大賢者」は紛れも無い建国の英雄の一人だ。現在の眞魔国にも強く影響を及ぼす御仁なのである。その魂を引き継ぎ、更には同じように双黒を身に纏う人物となると、誰も文句のつけようがあるはずがない。

 

 ヨザックの目の前にいる少年賢者は、自分の価値を計算し尽しているのだった。

 

「だから黒を着てらっしゃるんですね」

「まあ、いろいろと便利だからね」

 

そしてそれを、本当は疎んじていることがその口調からヨザックには読み取れた。部屋に帰りたいのは、もしかしたら今の姿を誰にも見られたくないという気持ちもあるのかもしれない。

 黒を纏う彼は、一個人でなく眞魔国の「双黒の大賢者」で、その計り知れない価値と引き換えに一人の少年としての自分を抹殺しなければならないのだから。

 

 こんなとき、ヨザックは彼を――――――堪らなく思う。

 目の前の賢者であり、王の友人でもある少年はその華奢な身に全てを背負う。

 魔王であるユーリ陛下が担いでいるものと、同じで、そして違うものを、彼は本当に、友人である王のためにそしてこの国のために、全て担おうとするのだ。

 

 それはとても哀しいことだ。

 けれど、彼にしか出来ないことだ。

 

「猊下」

「なに?」

「お部屋までお送りします」

 

言って、返事を聞く前に彼の体をひょいと担ぎ上げた。

 

「え?!ちょっ、」

 

当然抱えあげられた側は驚きの声を上げるが、ヨザックは担いだ相手の軽さに驚いていた。片手で足りそうな具合だ。

 

「猊下、ちゃんと食べてます?」

「は?何言ってるの、君!…じゃなくて、降ろしてよ」

 

思わず場違いな質問を投げつけるヨザックに村田は当然のごとく抗議の声をあげた。

 

「猊下お疲れのようですから、俺の俊足ですぐにお部屋にお連れしますよ〜」

 

努めて明るくヨザックはおどけて見せた。本当は黒衣を纏う少年を、誰の目にも触れさせたくなかった。

 頭上からため息が聞こえる。でもそれは、ほっと彼が胸を撫で下ろした音かもしれなかった。

 

 ヨザックはぎゅっと彼の細い腰を抱えなおして先を急いだ。

 自分に出来ることは、それくらいしかないのだから。今はまだ。