狭間の庭

 

 

 

 

 

 目の前にあらわれたものに、息を呑んだ。いや、呑んだと言うよりは息が止まった。
 飲み込んだ動揺が肺を塞いで、村田の正常な呼吸を奪う。
 まさか。そんな。馬鹿な。
 込み上げてくる否定の言葉を感覚が裏切る。視覚じゃない。宝と称される二つの黒に映るのは、友人の姿であってそうじゃないから、視覚で判断したわけじゃなかった。

「……渋谷」 

声が掠れたのが自分で分かる。けれどそれに舌打ちする余裕すらない。声音に滲む切実な願望を感じ取ったのか、相手の目がすうっと細められた。そこに含まれるものは嘲笑であり苛立ちでもあるのだけれど、村田が感じ取ったのは前者だ。

「賢者よ」

だから勝ち誇ったように名称を呼ばれて村田は自分を取り戻さなければならなかった。
 カチャリ、とソーサーにカップを置く。今の今まで、二人で腰掛けるにはいささか大仰過ぎるソファに肩を並べて座っていた体と、気持ちだけでも距離を取った。

「浮かない顔だな?わざわざ俺から出向いたというのに」

ふ、と口角を歪める笑い方は上様だってするけれど、明らかに違う。違うということを、他の誰が分からなくても村田だけは、気付かないわけがなかった。

「…渋谷は?」

あくまでも冷静に尋ねれば相手の眉がぴくりと上がる。

 

 ほら、その仕草。
 目の前にあるのは黒髪黒目、世にも稀な双黒の魔王と讃えられるとても大事なひとの顔。それなのに今の村田には彼の向こうに鮮やかな蒼と金色の、輝かんばかりの対比が透けて見える。気に食わないときに片眉が上がる。君はちっとも変わらない。おとなしく渋谷の申し出を受けておけばよかった、と後悔してももう遅い。

 魔王専用の豪華部屋は、それなりに快適だけれど落ち着きに欠ける。広い部屋に大きなベッド。豪奢なソファに質のいい机。きらびやかな家具の数々は、魔王陛下にこそ相応しいものだ。
 双黒をもてはやすこの国で、かの大賢者の魂を持つ村田を人々は魔王と同等とまではいかないまでも、信仰の対象として扱いがちだ。けれど本人は、自分も臣下のひとりに過ぎないことを知っている。例え有利が断固としてそれを認めなくても。

 それに元々、賢者はあまり華美を好まない。血盟城にあるこの部屋が、質は良くてもシンプルな装飾で統一されていることがその証だ。遥か昔から受け継がれてきた偉大なる社の一角も血盟城の片隅も、それは同じこと。

 ―――なんて本当は全部、言い訳だと、村田だって分かっている。 
 魔王の部屋は彼の部屋だ。今現在、本当の意味で目の前にいる、この傲慢な男の。
 彼の名残に触れるのなんて、眞王廟のあの場所だけで十分だと心底思っているのにこんなかたちであらわれてくるなんて最低だ。大体どうやってんの、それ。なんでもアリにもほどがある。

 などと村田が胸のうちでつらつらと苦言を並べていることなど知らない男は、

「つまらんガキだ」

 ぼす、と明らかな不機嫌を滲ませて背中をソファの背に押し付けた。

「君の意見なんて聞いてないよ。君がここにいるってことは渋谷の意識は寝てるわけ」
「そんなところだ」
「おかしいな。眠そうな素振りなんかみせてなかったんだけど」
「おまえはあの小僧のことばかりだな。少しくらい驚いてみせたらどうだ」
「十分に驚いてるよ」

それは本当のことだった。彼の気配を、あろうことか目の前の人物から感じたとき、心臓を鷲づかみされたような感覚に陥った。本当に。
 でも、そんなこと知られるわけにいかないから、疑わしい目が向けられるのも無理もない。村田は、偉そうにこちらを見てくる相手の目をそっと見返した。

「ほんとに君なんだ」

ぼそりと呟くと、す、と目と口が同時に動く。

「お前が聞くのか?」
「……一体何がどうなってるか、説明してもらいたいんだけど」
「説明など必要ない。俺に出来ないことなど何もないと、一番知っているのはお前だろう?」
「相変わらず馬鹿みたいに自信家なんだね」 

憎まれ口を叩いても、男は楽しそうにこちらを見据えてくるだけだ。やめろよ、と村田は思う。渋谷の顔で、そんな表情をするな。

「俺の賢者」
「!」

 あまりにも自然に呼ばれたせいで、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
 眞魔国の祖は流れるような動きで隣の村田の腕を引く。抵抗が遅れたのは、それが渋谷有利の体だからか、それとも。

 王の双眸がひどく近い。至上の美と謳われる見慣れた黒が、もう見えない。
 始祖は、あの頃と同じ瞳で村田の目を通して意識の奥に土足で踏み込んでくる。その横暴なやり方が昔から嫌いだ。逃げる隙なんか与えない、欲しいものは手に入れないと気がすまない。まるで子供だ。大きすぎる力を持った子供ほど厄介な存在はない。君のそういうところが、本当に、嫌いだよ。

「あまりあのガキに心を許すな」

 それでも囁かれて背筋が震える。その事実がなにより村田を打ちのめす。

「お前が俺のものだということを忘れるな」
「……違う」 

そう返すのが精一杯で、それなのに王は、揺るがない瞳で一度、面白そうに瞬きなんてするのだ。

「いいことを教えてやろう」

近い距離が、ほとんどゼロになる。けれど村田は動けなかった。

 口と口が触れてしまいそうな距離で彼は言う。

「俺が器の外に出ることが出来たのは共鳴したからだ」

彼の言葉と吐息が、同時に村田を襲う。彼の手が髪の合間に差し込まれてやさしくくせ毛が撫でられた。聞きたくない。その先を絶対に聞きたくなかった。

 けれどこの男が賢者の言うことを聞き入れてくれたためしなんてないということを、一番知っているのもまた村田自身だ。
 髪に触れていた指先がゆっくりと頬を伝う。触れ方が優しいなんて、一瞬思ってしまった自分に戦慄する。親指の平が唇を辿った。

「お前に触れたいと」
「………」 

願いはやはりかなうことはなくて、口先に感じる誰かの体温は、絶望的なあたたかさを持って。