夢を見た。
降りしきる雨の中に誰かが立っている。 顔は分からないけれど知っている人物だ。 ひどい雨。
頭の天から爪の先までずぶぬれなのに彼はぴくりとも動かない。 ただある一点を凝視したまま、すこしも。
背中から悪寒が駆け上がる。自分はこの光景を知っている。
雷鳴が轟いていかずちが大地を討つ。 男を照らした。
夢だと分かっていなければ吐いてしまいそうだった。
egoistic umbrella
「村田!」
歯切れの良い音に我に返る。瞬きをひとつして状況を確認する。暑くも寒くもない空間、鼻腔を掠める甘い匂い。騒々しいくらいの周りの音、目の前に、彼の顔。
「大丈夫か?顔色悪いぞ?」
そうだ、と村田は胸のうちで頷く。
(渋谷と勉強しに来ていたんだ)
「出るか?」 「そうだね。甘い匂いに酔っちゃったのかな」
村田の意識を呼び戻した彼は心配そうに顔を覗いてきた。にこりと笑ってたいしたことじゃない旨を告げるが正直なところ気分が少し悪かった。手元の皿に乗っている半分ほど残ったドーナツを見る気にももはやならない。
甘い匂いの元を避けるように窓の外を見るが失敗だった。朝から降り続いている雨のせいで視線の先には灰色の世界が広がっている。
関東地方は先日梅雨入りしたばかりだった。
「よし、じゃあ出ようぜ」 「うん」
トレイを持って先に席を立つ有利に続いて村田も自分のバッグと食べ残したドーナツを抱えて安っぽいくすんだ赤色のソファを後にした。
店の外は梅雨特有の湿気と雨の匂いに満ちていて一瞬くらりとめまいを感じる。けれどそれが体調の異変から来ているものではないと分かっているからしばし目を閉じただけで村田は遣り過ごす。
「まーた雨だよ」
バサリと傘を開いてぼやく有利の声が妙に遠くに聞こえた。バタバタとと頭上を打つ雨粒が邪魔をして少し聞き取りづらい。
「渋谷は雨が嫌いなんだっけ?」 「ん?まーな!やっぱ野球は青空の下でするもんだろ!」
雨の中のドラマってやつもそれはそれで良いけどさーなんてすぐに白球に結びつける彼の無邪気さが今の村田にとっては救いにすら思える。雨に埋もれてしまいそうな自分とは対称的に彼は灰色の景色に霞んでしまったりはしない。 ピンクと白のボーダーのポロシャツは美子さんの趣味だろうか。履きふるしたジーンズとはよく似合っているけれど、紺色の傘とのバランスがどこかちぐはぐだ。けれどそれがむしろ彼らしかった。
まじまじと見ていた村田の視線に気づいたのか、有利は不意にこちらを向いた。突然真正面に相対したその表情に村田は驚いた。そうして彼の次の行動はもはや突飛とすら言えた。
唐突に頬をつままれる。
「ふぇ、」 「雨が嫌いなのは村田だろ」 「!」
瞳が大きく見開かれたりはしなかったけれど動きは止まった。ああこっちに手を伸ばしたりなんかしたら君の腕が濡れてしまう、などと瞬間村田は逃げるように考える。
「お前また何かいろいろ考えてグルグルしてんだろ」 「………うるうるってひふや、ほくほへてはたーにはふのはひょっと」 「何言ってんのか分かんねえ」 「………」
だったら手を離してよと言うのは内心だけだ。今、目の前の相手をまともに交わせる自信が村田にはなかった。有利の急所を射る発言に動揺しているのを気取られたくない、そう思っている時点で主導権が向こうにあることを認めているようなものだけれど足掻きたかった。
その有利は傘から躊躇もせずに手を離して片方の腕までを村田の方へと伸ばしてくる。支えを失った傘の軸はストンと降下して彼の頭まで落ちたところで静止した。
もう片方の頬まで掴まれてしまう。
「もーお前がひとりでグルグルすんのにはうんざりなの。俺に言えよ」 「………」
やっぱり口がきけない状態で良かったと村田は震える。こんな台詞を臆面もなく言える相手に返せる言葉なんて持っていない。 有利の目に今の自分がどんな風に映っているのかと考えることは恐ろしい気がした。
彼は、村田から目を逸らさなかった。村田の頬を指でつかんで言語不能にしておいて言いたいことだけ言い放って。
―――その優しさが今日の村田にはひどく染みて、目頭が熱くなりそうになるのを必死で堪える。
そうしてまた彼は突如動き出すのだ。
「たーてたーてよーこよーこまーるかいてちょん」 「っ痛!」
縦に横に揺さぶられて最終的に思い切り引っ張られた挙句の果てにようやく村田のほっぺたは解放された。しかし払った代償はそれなりに大きくて両方の頬がヒリヒリする。ひょっとしたら少し腫れているかもしれない。
「痛いよ渋谷」 「だったら泣けよ」 「……嫌だね」
瞳を見返すことが出来ずに、傘を持っていない方の手で頬をさすることに意識を集中させる。
「強情ー」 「うるさいよ」
言葉を返される代わりに今度は唐突に腕を引かれた。傘と傘がぶつかり合う音がするのと同時に一瞬のうちに有利の顔が目の前に現れて村田は今度こそ大きく目を見開いた。 黒、と安易に表現できない色の目がふたつ、少しだけ高い位置から村田に近づいてくる。再会した頃には村田の方が少し高いくらいだったのにいつの間に追い抜かされたんだろうなんてことを考えている場合じゃないことを次の瞬間、村田は知ることになった。
「………」
触れたのは一瞬。
「余所見してんなよ」
唖然とする村田の視界の端でひょいと紺の傘が離れてゆく。雨に濡れた紺色は乾いているときよりも瑞々しい色合いをしていた。
「………は?」
村田が間の抜けた声を出したときには有利の姿は2、3歩先にあった。何が起きたのかを理解するのに時間はさしてかからなかったけれど受け入れられるかと言うと別の話だ。
(はあ?!)
ドーナツショップの前で軽く混乱する村田の姿を、振り返った有利が傘越しに眺めて満足していたのを、彼は知らない。 朝から続いていた胸のむかつきと夢の余韻からいつの間にか解放されていたことにもまた、彼は気づいていなかった。 |