目を開けたとき泣きそうな顔してるお前がいたから。

 だからやっぱり、俺の選択は間違ってなかったって思ったんだよ。

 

 

 

 

 

月夜に浮かぶ罪の星 4

 

 

 

 

 

 夜の眞王廟はひたすら静かだ。たとえそこに安置されるべき尊い魂が存在しなくても、いや、だからこそなのか、耳が痛くなるほどの静寂がその界隈を支配している。

 それはまるで彼方へと消えたかの魂がそれでもなお己の領域だと主張してでもいるかのようだ。

 

 濃く深い宵闇を切り裂くように堂々と進む有利の肩が不恰好に揺れる。やっぱりワガママな王様だ、あんた。誰にも聞かれない独り言を王は漏らす。偉人に対する無礼なんて今更気にかけようとも思わない。なにせこっちなんて心身を明け渡す寸前だったのだ。無礼なんてかわいい言葉で言い表せないようなことを向こうだってしてる、と有利は誰にともなく言い訳する。

 

 だけどもさすがに今の自分の行動を眞王が見ていたら黄泉の向こうから魔術くらい飛ばしてくるかもしれないと戯れに有利は考える。現眞魔国の王はもちろん、国の始祖の魂の痕跡に会いにこの場所を訪れたのではない。彼の目的はもっと単純で、もっと俗物的だ。

 

 中庭に面した回廊を通り過ぎてしばらく歩く。その間に少年王は彼のことを考える。自分をこの国の王とするべく芝居を打ってこちらに飛ばし、そして二度とは戻れないと言って地球へと返し、挙句の果てに再びこの地に誘った張本人。

 

 正直有利は、村田と勝利と共に眞王の最後の次元の穴をくぐったあのとき、この国の全てを捨てたのだと思った。再び王と呼ばれる日が来るとは思っていなかった。そうしてそれでも後悔はしていなかった。眞魔国に未練も懐かしさもたっぷりあったけれど、それでも地球を選んだことを悔やんだりはしなかった。

 

(だからって、辛くないってことはなかったんだぞ)

 

半ば諦めの境地で有利は思う。二度とは戻れない地。会えない人々。そう思って痛んだこの胸をどうしてくれる。

 

 ふと有利は立ち止まる。

 やれやれ、と思った。

 

「村田はいつだってなんだって唐突だな」

「何の話?」

 

気配もなく目の前に現れた少年が小首を傾げる。いや、もしかしたら気配はあったのかもしれない。有利が思考に没頭していて気づかなかっただけで。

 

「それより、どうして君がここにいるんだ、渋谷」

「つか村田、なんでそんな格好してんの」

 

問いに問いで返したのは答えをはぐらかしたかったからではない。考えるよりも先に口が動いてしまったのだ。

 

「………」

 

しかし村田は口を噤んだ。その様子は逡巡しているようにも困っているようにも見えた。

 

(ああ、そうか)

 

「ちなみに俺は村田に会いに来たんだよ」

「だから何で」

 

答えを独断で導き出した有利は先に自分に向けられた問いに答えながら村田との距離を詰める。近づくにつれて彼が突然現れたように思えた理由が分かってきた。

 

「こっちに帰ってきたときバタバタしすぎて、ろくに話も出来なかっただろ?」

「ああ、すごかったよね。君に向けられたみんなの眼差し」

 

だから会って話したいと思って、と言いながら有利は足早に歩を進める。ごく相手に近い場所まで来て、有利はちょうど腹の位置にある回廊の手すりに背中を預けた。有利の動きに合わせて村田も隣で同じような体勢を取る。身を包む真っ黒なマントがはずみで揺れる。その下にも黒衣を着ているようだった。この上なく似合うけれど、彼に不釣合いな黒一色。

 闇に溶けてしまいそうなその立ち姿は、辛うじて細い三日月の照らし出す光によって浮き上がって見える。

 

「フォンクライスト卿は相変わらずだし、ウェラー卿なんて見たこともない顔してたよ?フォンビーレフェルト卿はもう、なんていうか…、素晴らしいツンデレだよね」

「村田」

 

いつになく饒舌な相手の名前を呼ぶ。村田はまだ続けようとしていたのか、口を半開きのまま一時停止して、けれどすぐに吐息を吐くように笑った。

 

「なんだい」

「お前それ、喪服だろ」

「………」

「あの部屋に行こうとしてたんだな」

「……まいったなあ」

 

今度は明らかな嘆息を零して村田は有利をちらりと横目で見る。その視線は困惑よりも諦観のほうが余分に含まれているような気がした。

 

「君って変なとこで鋭いよね」

「そう言うお前は俺のこと口でまこうとしてたんだろ」

「渋谷、ちょっと性格変わってない?眞王の力だけじゃなくて彼の性格まで移っちゃったのかな?」

「―――俺は眞王じゃない」

 

瞬間村田の黒目がちな目が大きく見開かれた。

 

「………ごめん、失言だった」

「別にいいけど」

 

沈黙が落ちる。いつも2人でいるときに感じるような穏やかなものではなく、重く、どこか息苦しい。目の前に広がる暗闇が更にその重苦しさを助長させる。

 

「なあ村田」

 

有利はそれを破るではなく、溶け込んでいくような声で傍らの相手に尋ねかけた。

 

「結局俺は、お前の願いを叶えてやれたのかな」

「…え?」

「あのとき村田は眞王の願いを叶えて欲しいと言った。それって眞王の願いを叶えることが、村田の願いってことだろ」

 

村田が息を呑んだのが分かった。

 

「眞王と大賢者――村田も含めてだけど――は、結果の分かっている茶番を敷いて、その上で賭けに出たんだよな」

「………」

 

村田は答えないけれど、他でもない村田自身が言った言葉だ。有利はまっすぐに目の前の暗闇を見つめてはっきりと言葉にする。

 

「俺が諦めたら世界は滅びたのかもしれない。でも眞王は消えなかったかもしれない」

「渋谷!」

 

村田が慌てたように首を振った。彼がここまで感情的になるさまはひどく珍しい。

 

「渋谷、それは違う!」

「うん、分かってる」

「え…」

「だから仮定の話だって」

 

有利が笑う。場違いなその笑顔に村田の目が見開かれる。黒目が勝った眼差しは知性に溢れると言うよりもどこか神秘的で一瞬、引き込まれそうになった。

 そんな自分に今度は苦笑しながら有利は目の前の黒い瞳を見据える。

 

「俺が目を覚ましたとき、村田、泣きそうな顔してた」

「!」

「だから諦めなくてよかったって思った」

「渋谷……」

「村田がどんな結末を望んでたのかなんて俺わかんねーけど、少なくとも俺が諦めてたらお前泣いてたかもしれないだろ」

「ばか、泣かないよ」

「だから仮定の話」

 

そうか、と村田の口が動く。形でそれと知れただけで音として発されたわけではないけれど、2人の距離はごく近くにあって、有利は村田の顔をしかと見据えていたから聞き取れた。

 

 村田の瞳が有利を見つめる。心なしかいつもよりキラキラと光っているような気がする。

 

「――――渋谷。僕は…」

 

すうっと目が伏せられる。長い睫毛が何度か瞬く。そうして再び持ち上げられる。

 

「あのとき…、そう、あのとき」

 

記憶を手繰るように村田の視線が彼方を見遣る。

 

「消えてしまうかもしれないと、思った」

 

パチパチと村田の瞳がまたたく。有利は黙って、はじめて何かを伝えてくれようとしている彼の告白を、ただその眼差しだけに目を向けて、静かに待った。

 

「眞王が創主に支配され、君が眞王に囚われて。世界が滅びるなら僕だけでなく全てが滅びるだろうけれど、もしそうでなくても。彼と一緒に消えてしまうんじゃないかなと思ったんだ」

 

言って村田はかぶりを振る。

 

「いや、この言い方は卑怯だ。多分僕は、彼と共に消えてしまいたいと思っていたんだと思う」

 

有利は驚かなかった。少なからず、それは感じないではないことだったからだ。しかし驚きはしなかったけれど、動揺はする。けれど唾を飲み下し、内心の揺れをぐっとこらえる。

 堪えてただ、次の言葉を待った。ちょうど村田が、あらゆることをひたすら耐えて待ったように。

 

「でも君は諦めなかった」

 

ぼんやりと彷徨っていた村田の視線が有利の元へと戻ってくる。そうして彼はふっとわらった。今度は有利が目を見開く番だった。

 

「渋谷。君の魂は強靭だ。本当に、驚くほど。彼が君を選んだ理由が良く分かる」

「村田……」

「君が彼を取り戻してくれて嬉しかった。君が帰ってきてくれて、本当に嬉しかったんだ」

「村田、わかった、もういい」

「本当だよ、渋谷。本当に…」

「村田っ」

 

嬉しかったんだ、と彼が言葉にする前に有利は村田をぎゅうと抱き締めた。彼の顔を見れなかった。見てはいけないと思った。

 

「村田…よく聞け」

「うん」

 

有利はきつく華奢な体を抱き締める。自分だって小柄だけれど、筋肉のほとんどついていない彼の体は女性と見紛うとまではいかないまでも、ひどく頼りない。

 

 愕然とした。

 こんな細い体に、大きすぎる過去と、重すぎる秘密と、途方もない使命を抱えていたという事実をたった今、目の当たりにした。

 

(くそっ!)

 

有利は自分の迂闊さを呪いたい気持ちになる。けれどだからこそ、今言わなければいけない言葉がある。気が逸る。落ち着け、と一度歯を食いしばって有利は声を出した。喉がカラカラで、少し掠れていた。

 

「眞王はいない。本当に消えた」

「うん」

「でも村田は消えてない。今、俺の腕の中にいる」

「そうだね」

「だからお前は、それが悲しいんだ」

「………うん」

 

村田にとって眞王とは何なのか。その気持ちに名など付けられるのだろうか。有利は思うが、口にはしない。それは自分が立ち入るべき場所ではないと判断する。

 

「悲しいなら、思い切り悲しめばいいんだ。喪に服したいなら、存分に服せばいい。俺が許可する」

「君が許可したら、誰も文句言えないね」

 

くすくすと腕の中、胸元で村田が笑う。有利は彼の癖っ毛を手のひらで撫でつけた。ちょうどグレタの柔らかなふわふわの髪を撫でるような、そんなやさしい手つきだ。

 子供相手にするような行為を村田は嫌がる素振りもなく黙って享受していた。

 

 やがて顔の下からぽつりと名を呼ばれた。

 

「渋谷」

「ん?」

「ありがとう」

「……」

 

有利の衣服に口元を押し付けられているためにくぐもった彼の声は、普段よりも聞き取りづらい。だが有利はそのままにして腕の力を緩めることもしなかった。

 

「どういえばいいか分からないけど。君は、僕の願いを叶えてくれたのか、僕自身よく分からないけど…、でも、感謝してる」

「そっか」

「君に、もう一度会えて、本当に……良かっ、た…」

 

言葉尻は捉えられないほど小さく、途切れ途切れだった。そのまま村田の体がずしりと重みを増し、規則正しい呼吸が聞こえてきて、有利は思わず苦笑いをしてしまう。

 

「そこで寝るか?普通…」

 

ポンポン、と振動にならない程度の強さで形のいい頭を叩いた。よほど疲れているのか起きる気配がない。部屋に連れて行こうかとも思ったけれど、有利はずるずると背中を下にずらして地べたに尻をついた。一緒に村田の体もゆるゆるとすべって有利の膝の上でうつぶせになる。傍から見ると2人とも随分と不恰好な体勢になっていた。

 

「巫女さんたちに見つかったら大変だな」

 

言いながら、きっとそんな事態にはならないだろうと予想する。きっと彼は夜明け前に起きるだろう。それは予感だった。黒い空にひっそりと差す細長い月が朝日の中に消えてしまう前に。

 

 有利は村田の頭のつむじのあたりに目線を移動させた。自分の肺の上で相手の肺が小さく上下しているのが分かる。

 手を持ち上げて癖の強い彼の髪の合間に指を差し入れてゆっくりと梳く。覚めない体は疲労の度合いを如実に語る。

 彼の戦いは、今このときまで終わっていなかったのだということを有利は理解した。

 

「………ばあか、無理ばっかして」

 

 うつぶせの頭に言葉とは裏腹な声がかかる。

 

 今自分の腕の中で、はじめて安らぎを手に入れられたのだろうかと有利は思う。

 長い長い、途方もなくながい彼の緊張が、ようやく途切れた証がいまのこの状態ならば良いと有利は願う。

 

「あーあ、結局、肝心なことは分からずじまいだったなー」

 

願いも。思惑も。胸の内も。その心に住んでいるのが誰なのかも。

 

 有利は口を開き、今はもういないけれど、でも確かに彼の気が満ち満ちている眞王廟の一角の空気を思いきり吸い込んで。

 

 どっちにしろ。今だって未来だって、あんたに村田はやらねーよ。

 

 去り際の男の言葉を思い起こしながら、ゆっくりと吐き出した。

 有利の胸を借りている村田の薄い体が、彼もまた下敷きにしている人物の動きに呼応するように、ゆっくりと、上下に動いた。

 

 

 

 

FIN