朧
闇を行く鳥はただ前を見据える。その目に世界ははっきりと映るけれど広すぎる視界はむしろ世界を狭くする。賢明な彼はそれを理解して全てを知りつつただ前に進む。彼は闇の中でしか生きられないが故に暁に焦がれ、そしてまた光を疎んじてもいる。
寝覚めがよかったためしはない。 身上の都合で低血圧では決してないが、目が覚める瞬間が村田は好きではなかった。睡眠自体は必要不可欠だし眠るという行為が好きだ。それは自分の魂の由縁を忘れられる時間でもある。しかし目が覚める瞬間に脳裏を掠める膨大な記憶が影響しているのであろう、何とも言えない寝覚めの悪さに村田はいつも辟易する。
だがそれに癇癪を起こしたりはしない。魂のみとは言えど何千年も時を経れば、覚えるのは辛抱ばかりだ。
それでも今日はいくらかましで、むくりと体を起こした村田はしかし起こしたつもりなのは意識だけで、実のところは頭が多少動いた程度。それを訝しく思う前に再び後頭部が地についてしまった。硬い地面が背中に痛い。
「………」
目覚めは良いが寝起きの気分は最悪な村田は、ままならない体に何となくむっとする思いではっきりと目を開けた。我慢強くはなっても感情が消えるわけではない。 すると同時にふっと、耐え切れなくてこぼれてしまったというような笑いが上から降ってきてさらに眉を潜める。木々の間から漏れるこもれびと共に明るい色が視界に入った。
「…………笑ってないで助けてくれてもいいんじゃない?」
意識がはっきりと覚醒して、現状を把握した村田はじろりと非難の目を向ける。しかし頭上のオレンジ頭は「そいつはすみません」と悪びれもせず飄々と答えた。
「お三方があんまり気持ちよさそうに眠ってたんで」
バックに緑を背負ってにやりと笑う男前に、村田もため息で返すしかない。確かに自分の両隣から気持ちのよさそうな寝息が聞こえてくるからだ。
「大体なんで渋谷とフォンビーレフェルト卿が僕の隣で眠ってるわけ?二人で寄り添ってればいーんじゃないの」
婚約者失格!とほとんどヴォルフラムに向かってダメ出しする村田にグリエは苦笑する。
「さあ、来たときにはもう今の状態だったので俺には何とも」 「重いよ。グリ江ちゃん代わって〜」 「代わったら起きちゃいますよ」 「……」
憮然としつつもあきらめたのか、盛大なため息をついて村田は仕方なく再び目を閉じることにした。
「お眠りになられるんで?」 「だってどうしようもないだろう」
村田がぞんざいな口調で返すのをどこか微笑ましいような気持ちでグリエは聞いていた。拗ねてしまったのだろうか?ひょいと悪戯心が働いて眠りに入ろうとする顔を覗き込む。
「眠れるんですか?」
何と言うこともなく口走った言葉に、村田の目がぱちりと開いた。対するグリエは目を閉じた村田を無防備に覗き込んでしまっていて、常にはないような至近距離で彼の瞳を見て思わずどきりとしてしまう。
しばらく動けずにその最上の黒をただ見つめていた。 しかしその、一瞬のような永遠のような時は、持ち主によってふいと逸らされてしまう。
「あ、」
思わず声を漏らしてしまった自分にグリエは驚く。思いがけず目の当たりにしてしまった彼の漆黒は、美しいだとか綺麗だとかいう概念を軽く超えていて――――つい、惜しいと思ってしまった。双黒であれば彼の隣に寝ている当代魔王である少年のものを見慣れているはずなのに。
「あ―――、…眠られるんじゃないんですか?」
そんな自分に動揺するが何とか当たり障りのない言葉をつなげる。村田はそれに対してひとつ瞬いて、無言のままもう一度目を閉じた。
「…………眠れないよ」
ぽつりと呟いた言葉はグリエにも届いたけれど、それきり黙りこむ村田に言葉をかけられない。目を閉じているだけなのは先ほどのささやきからも雰囲気からも分かるけれど、それでも。 声もかけられずかといってその場を離れるわけにもいかず、美丈夫のお庭番は珍しく困惑していた。
グリエのため息を耳にとらえながら村田もまた複雑な気持ちで目を閉じ続ける。 (眠れるわけない) こんな光のような存在を手元において、おいそれと意識を手放したり決して出来ないと村田は思う。自分を見下ろして身の処し方に戸惑っている男も、向こう側の存在のように思える。
なぜだかは分からない。 けれど村田にとって、自分だけが闇の化身のように思えるときがある。この身に宿る色と同じ。隣に眠る少年の一人は彼と同じ色を持っているけれど、根本的な質が違うと感じずにいられない。 光の中の黒と、闇の中の黒。 同じ黒でもまったく違う。 なぜ自分だけが違うのだろうと問うたところで答えはでない。だから余計にそれは影を落とす。
「………猊下?」
瞼を合わせたまま思考の溝に落ち込んでいく村田に声がかかった。さすが有能な軍人であるグリエは自身の下にいる少年の変化に敏感に反応したのだろう。けれど村田は決して目を開けなかった。 頑固さも、もしかしたら4千年の時を過ごすうちに身についてしまったもののひとつかもしれない。
戸惑うように影が揺れて、ふわりと。 自分の髪に触れる大きな手を感じてもなお少年は身じろぎひとつしなかった。自分の身に絡む両隣の、また頭の上の手のひらの体温を感じながら、眠りに落ちる術も、持たないまま。 |