風の往く午後
最近よく眠れない。 自室の文机にたんまりと積まれている書類を片っ端から処理していきながらぼんやりと村田は思う。テラスに面した大きな窓から差す陽の光が心地よく、一般ならばうとうとしてしまいそうな風情であるが、生憎村田の目は冴えたままだった。 嘆く王佐に押し切られ黒目黒髪をそのままにおとなしく執務に勤しんでいる。ここ数日正体を隠して市街に下りていたことがとうとうばれてしまったので、自業自得と言われればそれまでだ。
「う――っ」
腕を上に伸ばしてコキコキと肩を鳴らす。一度取り組むと仕事の速い村田は大方の書類は裁ききってしまっていた。4000年も生を繰り返していればそれくらいの要領は身につく。まったく、長い時は余計なことばかり養わせるとため息をついた。 仕事の速い村田をギュンターもグウェンダルも重宝する。無論それが彼の真価ではないことは言うまでもないが、こんこんと沸いてくる日々の処務を片付ける人手は内容が内容なので万年人手不足なのが現状なのだ。
本来ならば双黒の大賢者の魂を受け継ぐ者にそんな雑務をこなさせるなど噴飯ものではあるのだが、それは人は皆平等、をスローガンに掲げる現魔王の方針がこんな所で生きているのである。 ギュンターもグウェンダルも格式や伝統を重んじるが、目の前の膨大すぎる案件に信念を曲げざるを得ないというのが本音なのだろう。
「まーったく、人使い荒いよね〜、この国は」 「ごもっとも」
ぐいっと腕を今度は後ろに伸ばしてマッサージもどきを施す村田に、鼻にかかった明るい声が返ってきた。
「おかえり、グリエ」
いわずと知れた眞魔国トップの諜報員にして剣の使い手、さらには女装までこなすマルチな軍人、グリエ・ヨザックである。
「お茶をお入れしますよ〜」 「悪いね、君も忙しい身なのに」
村田が眞魔国に滞在している間は職務の合間を縫って彼の護衛も引き受ける。そしてアフタヌーンティーの給仕までしてくれる万能青年だ。静かにドアを閉める方ではない手には、厨房から調達してきたのか甘い香りを漂わせた焼きたてのクッキーがのっている。 コトンとその皿を執務机の前にあるテープルの上にのせた。どうぞ、と目で合図する彼に甘えて村田は席を立った。
腰を下ろすとふわりと柔らかに体が沈む。心地の良い感覚にほっと一息つくと、絶妙のタイミングで茶器が差し出された。
「ありがとう」 「いえいえ」 「遠慮しないで君も飲むんだよ」 「どうも」
村田の言葉にグリエは頷きながら自分の分を用意する。賢者の部屋でお茶をいただくなど一般的に見れば許されることではないが、なにしろこの国のツートップは身分関係に対して実に緩い。
「猊下、おつかれですねえ」 「君ほどじゃないよ」
ソファにぐったりと体を沈める村田にグリエが声をかけると、もっともな返事が返ってきて彼は苦笑した。
「ごめんね、君引く手数多なのに僕がこっちにいるときは護衛までさせちゃって」 「いーえ、光栄ですよー」 「ありがとう」
おどけて返すグリエに村田も少し笑う。
「猊下ちゃんと寝てます?」 「……まあ」
普段よりも疲弊した主の様子にグリエが声をかけると、村田は曖昧に笑った。やれやれ、と従者は持っていたカップをコトリとテーブルの上に置いた。
「本日の猊下の御政務は終了ね〜」
そうグリ江モードでおちゃらけて言ったかと思うと、あっけに取られる村田を彼が手にしているカップごとひょいと抱え上げた。衝撃に器の中の紅茶がゆらりと跳ねるがギリギリ零れるには至らなかった。
「ちょっ、グリエ何を、」
当然抱え上げられた方は身をよじって拒否しようとするが。
「猊下に倒れられでもしたら大騒ぎになっちゃいますから」 「……」 「その前にしっかり休んでください〜。体調管理も上に立つ者のたしなみよ★」
などと畳み掛けられてはさすがの村田も口を閉じざるを得ない。確かに彼の言うとおり、村田の体調はお世辞にも良いとは言えない状態だった。ばつの悪い思いでカップに残った紅茶をごくりと飲んだ。
ぽすん、とベッドの上に柔らかに下ろされる。ご丁寧にブランケットまでしっかり身体の上に掛けられて手に持った空のカップをやんわりと奪われた。
「眠れそうですか?」 「……うん」
自然な動作でさらりと髪を撫ぜられた。黒い目も黒い髪も秘宝と言えるほど珍しいこの世界ではそれに頓着せず触ってくるものもまた珍しい。その貴重な人種である自らの護衛の大きな手を好ましいと村田は思う。好奇心も畏敬の念も含まれていないその仕草が心地よかった。 その行為が好ましいのか、それとも行為をなす人物が好ましいのか、村田自身考えもしなかったけれど。
***
すう、っとベッドの中の人物が夢の中に連れ去られるのを黙ってグリエは見守っていた。眞魔国の為に、魔王陛下の為にと、オーバーワークをこなし続ける小さな体を少しの間でも休めることが出来たことに満足を感じる。 と同時に、惜しい気もしていた。普段は非の打ち所がないほど隙を見せない彼だけれど、弱っている今ならつけ入ることが出来たかもしれないと強かに男は思う。 しかし禍々しいほど美しい闇色の髪をゆっくりと撫ぜると安堵したような表情を見せる相手に、そんな気持ちも薄れてしまった。 が、すぐに悪戯っ子のように切れ長の目をちらと光らせる。
「猊下」
完全に意識を失ったことを確認して、すっと顔を近づけた。少年にしては色の白い細やかな肌にうっすらと影が差す。
「駄目ですよ〜、下心のある男の前でそんな無防備に寝入ったら」
などと理不尽な台詞を吐いて笑みをかたどった口を少し開くと。
がぶり。
ほとんど噛み付くように唇を奪った。
それが彼なりの宣戦布告であることなど睡魔に意識を吸い取られた少年賢者はむろん知るはずもなく。 穏やかな昼下がりの城の一角で、静かに火蓋が切って落とされたことを。 優秀な故に性質の悪い従者しか、まだ知らなかった。 |