ハルナさん

 

 よく晴れた夏空の下、かれこれ1時間ほど阿部と栄口は自転車のペダルをキコキコこいでいた。夕方とはまだ言えない時刻、車の通りもさほどない公道を並んだり1列になったりしながら進んでいく。風を切って走る彼らの、背中のあたりで大きく膨らんでいた白いワイシャツがキキィ、という音と共にしぼんだ。

 

「到着〜」

「暑ィ」

 

ふう、と息をついて2人は自転車をおりる。家が学校から遠い阿部と栄口は日ごろから遠距離を自転車で行き帰りしているのでこの程度の距離は慣れっこである。しかし、暑さに耐性は関係ないのか、こめかみや首筋からは汗が吹き出て、時折日焼けした肌を伝った。2人とも白いシャツがぺたりと背と胸板に張り付いている。

 零れ落ちそうになる汗を肩口で無造作にぐいと拭いて栄口は自転車に鍵をかけた。

 

「さて、行こっか」

「おう」

「せっかくの安売りだからね!じゃんじゃん買うよ〜」

「主婦みたいな台詞言ってんじゃねェ…」

 

呆れたように返す阿部のことを気にもとめないで栄口は、「こんにちはー」と元気のいい声を店先であげて、被っていた帽子を一度外して礼をしてから中へと入っていく。阿部もまた肩を竦めながらその背中に続いた。

 

 今日は週に1回あるミーティングの日で、1週間の間で唯一、練習がない日でもある。授業以外の時間をほとんど練習時間に充てている西浦高校野球部の、数少ない空き時間を使って副主将2人は部の備品を買いに来ているのだった。

 

 店の中は様々なスポーツグッズで溢れかえっていた。テニスのラケットやらバスケットシューズやらの立ち並ぶ列を素通りして、阿部と栄口は見慣れた道具の置かれているエリアに直行する。

 硬球やグローブ、バットなどが整然と並べられた棚まで来てそれらを入念にチェックする頼れる副主将たちは、メモと値段と品物とを照らし合わせながら慎重に買い物を進めていく。時折意見を交わしあいつつ品物をカゴに入れていく彼らの瞳はスーパーでセール品を目利きする主婦と同じくらいに真剣だ。

 西浦野球部の予算は父母会と監督の財布で賄われている。決して多くはない部費をやりくりするのも副主将の手腕のひとつなのである。

 

「結構安くなってるね。ソックスは部員全員分買っておく?」

「消耗品だからな、あって困るってことはねェだろ」

「だね」

 

じゃあ次は、と栄口が顔を上げたとき、棚の突きあたりからこちら側へ曲がってきた背の高い男と目があった。

 あ、と栄口の口が開く。前にいる阿部はいまだ目の前の棚を思慮深げに見つめている。

 

「阿部、」

 

くいくいと栄口は阿部のシャツの袖を引っ張った。

 

「タカヤ!」

 

ハルナさん、と彼が相手の名前を発する前に大きな声が店の一角に響いて阿部はぎょっと顔を上げた。

 

「榛名!店の中だぞ、静かにしろっ」

「イテッ!ヒデーよ加具山さんっ!」

「お前は声がデカすぎンだよッ」

「ンなことないっスよ!」

 

ひょこりと、その榛名の後ろから現れたのは坊主頭の小柄な少年だ。その姿を見て栄口がぼそりと呟く。

 

「確か武蔵野の…」

「3年の加具山だよ」

 

賑やかに歩いてくる2人を冷ややかに見つめながら栄口の言葉を攫うように阿部は答える。ワイシャツに黒いズボンという出で立ちから見て学校帰りのようだ。武蔵野第一と西浦の位置は決して近くではないのになぜいるのかと、驚き半分、舌打ち半分といった気持ちがその顔にはありありと浮かんでいた。

 

「3年かァ、仲良いね」

 

そうだな、と返して阿部は再び目の前の棚に視線を戻す。え、と隣で栄口が小声で驚く声が聞こえたけれど構わずに作業に戻ると、先程と同じようにワイシャツの袖をくいと引かれた。

 

「ンだよ」

「だってハルナさん、阿部のこと呼んでたよ?」

「知らね」

「タカヤてめー!無視してンじゃねェよ!」

 

無視を決め込もうとした阿部だけれど、さすがにこの距離では無理があったようで阿部が横を向いたことに気づいた榛名が向こう側からどかどかと足を踏み鳴らして歩いてきた。その後ろを加具山が慌てて追ってくる。

 

「何スか」

「ハッ、相変わらずかわいくねェなァ」

 

にこりともしないで先輩相手に仏頂面を向ける阿部に、榛名はあからさまにため息をついた。両手を組んで立つさまは実に偉そうだけれど、精悍で整った彼の風貌によく似合っている。

 

「何してンの」

「買い出しッス」

 

見りゃ分かるだろと剣呑な表情で阿部は榛名を見上げるが、残念なことに相手は阿部の目つきの悪さに怖気づくような可愛いげは持っていなかった。ふうんと上から見下ろしてくる視線は阿部が中学の時に受けていたものと少しも変わっていない。

 その、切れ長の目がふと彼の後輩の隣に向けられる。阿部の眉間の皺がなお寄ったことに無論気づきもしないで榛名は無遠慮に栄口までもを見下ろした。

 

「そっちは、」

「西浦のセカンドだろ、この馬鹿!」

 

栄口が榛名の迫力のある眼差しにびくりとしたのとほとんど同時、スパコーンとその榛名の後ろ頭から良い音が響いた。

 

「イッテ!何すンですか!」

「お前誰彼構わず睨むんじゃねえ!怯えてンじゃねーか!」

「………」

 

驚きに目を見張る阿部と栄口の目の前で小さな先輩はもう一発、容赦なく大きな後輩の背中をどついてから2人に向き直った。

 

「ごめんな、後輩の指導がなってなくて」

「いえ…」

「ち、ちわっス!」

 

とりあえず阿部は辛うじて首だけ振り、栄口は慌てて帽子を取って遅まきの挨拶をする。あの「榛名」をどついた坊主頭の先輩は大きな瞳が印象的な、どことなく可愛い感じの人で、そのギャップに1年2人は多少途惑ってしまった。

 

「あー!」

 

そのとき加具山にどつかれた後頭部をさすりながら榛名が大きな声をあげた。ずずい、と彼は栄口に近づいたかと思うと、帽子を取った彼の顔をさんざん覗きこんで、にやっと笑った。

 

「お前、サカエグチだろ」

「えっ」

「榛名よく知ってたな。そうそう、栄口くんだよね。で、君が西浦の捕手の阿部くんだろ?榛名の後輩の」

「……そうっス」

 

他人のことは言えないながら、よく知ってンな、と内心思う阿部だけれど、それよりも気になるのは榛名の発言だ。訝しげに見つめる阿部の視線に気づいたのか、栄口を見てにやにやしていた榛名はくるりと阿部の方を向いて、口の端を1センチほどくいっと持ち上げた。

 

「タカヤ。こいつサカエグチだろ?あの弱っちぃシニアにいたやつ」

「!」

 

阿部が目を見開いたのを認めて彼は満足そうに頷いた。

 

「お前がずっと…」

「元希さんっ!」

「榛名ァ!」

 

言いかけた榛名の言葉を止めたのは2人分の怒声。当事者である栄口は急展開についていけずに目を白黒させている。

 

「お前、失礼なこと言ってんじゃねェ!ったくもー早く帰るぞ!」

 

がしぃ、と自分よりも背の高い相手の首根っこを掴んだ加具山は、呆然としている栄口と珍しく慌てている阿部を交互に見てぺこりと頭を下げた。

 

「失礼な奴でほんとごめんな!次の試合、がんばって!」

 

などと激励までしてくれて、デカイ後輩を半ば引きずる形で来た道を戻っていくその姿は、なんとも言えず勇ましい。

 

「痛ェ!痛いっス加具山さん!」

「うるさい!お前ちょっと黙ってろッ」

「ええ?!横暴ッス!」

「余計なことしか言わねーからだろ!」

「………っ!」

「………ッ!」

 

両方共に十分に大きな声の言い合いがしばらく店内に響いたけれど、やがてそれは夏の空の下に消えていった。

 

 残された阿部と栄口はしばらく嵐のように来て去っていった彼らの方をぼんやりと見て、そして2人、顔を見合わせる。

 

「……ハルナさん、ちょっと変わった?」

「…さァな」

「加具山さんって強いんだね」

「ちょっと意外だな。あの榛名が文句のひとつも言わねェなんて」

「なんかちょっと、可愛かったかも。ハルナさん」

「はァ?!」

 

ものすごい形相で聞き返してくる阿部に、ぶっと栄口は笑う。ありえねェという隣の声にひとしきり笑ってから、ふと思い立って栄口は先程聞きそびれたことを口に出してみた。

 

「ねえ阿部、さっきハルナさんが言いかけてたことってなに」

「なにが」

「阿部がずっと、って」

「………」

 

押し黙る阿部を栄口は見つめる。不機嫌そうに見える阿部の横顔。じっと見ているとくるりとこちらを向いて前触れなく視線がかち合って栄口は驚いた。心なしか目の端が、赤いような。

 

「え、なに。もしかして照れてンの?」

 

なんで?と首を傾げる栄口に阿部は、思い切り顔をしかめて。

 

「なんでもねエよ!」

 

そうして搾り出すようにそう言った後は、栄口が何度聞いても答えを教えようとはしなかった。