シニア

 

 阿部が西浦高校を選んだ第一の理由は、西浦の硬式野球部が今年から発足すること、つまりは先輩、という存在のいる確率が圧倒的に低いという点にあった。中学時代シニアで野球をやっていた阿部にとって部活というのはほとんど未知数だったし、1年目の部に身を置くというのは大博打以外の何者でもなかったけれど、阿部はそれでも先輩がいないという環境にこだわった。

 

 榛名元希。

 

 その名が、自分の根底から決して消えることはないのだろうということを、阿部自身が一番理解している。引退し、卒業した後も生々しく胸のうちを抉り続ける相手を、消す術を阿部は未だ持っていなかった。

 

 あらゆるスカウトを蹴って武蔵野第一に進学した榛名。チームメイトは阿部も彼を追って同じ高校に行くものだと思っていたらしく、武蔵野を受験しないと言った時にはひどく驚かれた。でも阿部だけは、自分がどこを受験したとしても榛名と同じ高校にだけは行かないことを知っていた。

 

 榛名の野球は野球じゃない。

 

 少なくとも自分の思う野球とは全然違うものだったと、阿部は思う。

 あまりにも違いすぎた彼との価値観を阿部は埋められなかったし、相手にはそもそもそんな意識すらなかった。

 

(不毛だな…)

 

榛名との時間、榛名とした野球、そしてなにより、榛名から抜け出せない自分。もはやほとんど会うことすらない人間の幻影を追ったところで得るものなどなにひとつありはしないのに。

 それでも阿部のなかで黒い炎のようなものがくすぶり続けていて、認めたくはないけれど自分があの日から先に進めていないことを感じないわけにはいかなかった。

 

 西浦への進学は、そんな自分にケリをつけるためでもあったのかもしれない。榛名のいない、そしてあのころの自分を知ることのない、全く新しい環境で野球を一からやり直すことで自分の野球を取り戻したかったのかもしれなかった。

 

「阿部!」

「……よぉ」

 

過去にどっぷりと沈みこんでいた阿部は自分の名前を呼ぶ声に遅れて反応する。手を上げてこちらに向かって歩いてくる人物を目に捉えて、今自分が西浦高校の正門前に立っていることを思い出した。

 またもや昔を回帰していたのだと思うと腹の底がむかりとしてきて自然に眉間に皺が寄る。

 

「ごめん、待たせちゃった?」

「いや、オレもさっき来たばっかだよ」

 

歩いていたのを駆け足に変えて傍まで来た栄口が申し訳なさそうにそんなことを言うので、自分に舌打ちしたい思いに駆られながら否定する。中学を、シニアという場を卒業してもなお乱されるこの身がたまらなくもどかしい。

 

「行こうぜ。ちょっと早いけど大丈夫だろ」

 

頷く相手の表情は変わらず気遣わしげだったけれど、阿部はそのまま前を向いて歩き出した。栄口もすぐに隣に並ぶ。

 2人は他愛もない話題に花を咲かせながら、今にも開きそうな蕾を付けた桜の木々が両側に並ぶ大きな道を、西浦高校へと続く長いとも短いとも取れるその坂道を、のぼっていった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 西浦高校第2グラウンドは校舎から離れた場所に位置している。見渡す限り360度を畑に囲まれたのどかな場所が、野球部の練習場だ。その端側の一角でマウンドの状態をチェックしていた阿部はふと顔を上げた。

 外野になる予定の場所で、草と格闘している人物が目に飛び込んでくる。自分と同じくらいの背格好。ボーダーシャツとカーゴパンツという出で立ちでグラウンドを整備しに来た、阿部と同じように中学時代シニアで野球を経験し、4月からは発足したばかりの野球部に籍を置くことを希望している少年。

 

 栄口勇人、という名前と顔は中学の頃から知っていた。

 

 とはいっても同じクラスになったことはないのでまともに話をしたのは受験の時が初めてだ。シニアで野球をやっているという共通点はあったが、ブロックが違った上に栄口のチームは何回戦も勝ち上がるようなところではなかった。彼が所属するシニアチーム自体を阿部は長い間知らずにいたくらいだ。

 

 それでも阿部が栄口のことを見知っていたのには理由がある。

 いつだったか記憶が定かではないけれど、大きな大会の予選か何かで有力な投手がいると聞きつけた阿部は、その試合を見に行った。ブロックが違っても勝ちあがって行けばいずれは当たる。それなりに強豪と呼ばれるシニアの正捕手だった阿部は他のめぼしいチームの動向をチェックするのも役目のひとつだった。とは言え、強制的な仕事ではなかったので、半分は趣味だ。

 

 その投手は確かに良い投手で、球速もあるし球種も多いし、コントロールも悪くなかった。そしてなにより彼は、1試合投げきる体力と根性を持っていた。

 

 けれど、阿部が着目したのはその投手ではなく、むしろ相手の、しかも明らかに格下と思われるチームの方だった。

 

 チーム自体は珍しくもない、それなりの投手とそれなりの捕手、抜きん出てスター性がある4番がいるでもないありきたりなチームだった。しっかりと練習はしているのだろう、守備は堅実だという印象を受けたけれど、一言で言えば地味。

 

 ただ、1人だけ気になる選手がいた。

 

 阿部が栄口を見たのは、そのときが初めてだった。

 内野の中央にいた記憶があるから、恐らくショートかセカンド辺りを守っていたはずだ。動きは良かったと思う。打撃も見たはずだが、正直あまり覚えていない。

 

 阿部が栄口に目を留めたのは彼がチームの中心を担っていたからだ。

 

 1試合を通して観察すればナインの大体の役割は把握できる。栄口は主将ではなかったが、明らかにチームの核は彼だった。

 

 一際大きく声を上げ、投手の調子が悪くなれば捕手と共に必ず駆けつける。内野手とそれぞれ目を合わせ、大きな声で確認を取る。時には後ろを向いて外野手とのコンタクトも欠かさずにいた。

 なにより驚いたのはバッターボックスに入る選手が皆、直前に彼を振り返ることだった。それに気づいたときにはさすがに目を瞠った。失礼な言い方をすれば、少し、異常だとも思った。

 

 栄口は主将でもなければ4番バッターでもない。そして遠目ながら見た感じでは、クラスに1人はいるような、その他大勢を笑わせるお調子者タイプという印象も受けなかった。

 そういった、特別な場所にいない者がチームの真ん中にいて、全体のムードメーカーになることは非常に珍しい。だからその姿は阿部の脳裏に強く焼き付いたのだった。

 

 学校で栄口を見かけたときに阿部はすぐにあのときの内野手だと気づいたけれど、結局3年間、彼らのクラスが重なることはなく、阿部が彼と会話と呼べるものを交わしたのは、中学卒業間近の受験の日だった。

 

 阿部は作業をしていた手を止めて外野側で草むしりをしている件の相手を見つめたまま理由の分からない吐息を吐き出した。しゃがみこんでもそもそと動いている背中に3月の暖かな陽の光があたっている。

 じっと見ている阿部の視線を感じたのか、栄口は座ったまま、ふ、とこちらを見た。そうして阿部を少しの間見つめてひょいと腰を上げる。そのまま彼はマウンドに向かって駆けて来た。

 

「なに、どうかした?」

「いや、別に」

「あ、そう?」

「おう」

 

阿部の返事に満足そうに頷いて、彼は、ならいいんだ、と笑った。

 

「ここで春から野球するのかぁ」

「出来るといいけどな」

「なんで?出来るよ!そのためにオレたち一足先に来てんじゃん。4月になって部員が集まったら、すぐにでも練習できるようにさ」

「集まるとは限らないだろ」

 

つい、憎まれ口を叩いてしまってから後悔する。自身の口の悪さを阿部は一応自覚している。栄口は一瞬びっくりしたようにこちらを見て、そしてなぜだかぷっ、と噴き出した。

 

「阿部って見かけによらず心配性なんだ」

「はァ?」

 

今の会話でどうやってそんな感想が沸いて出るんだと今度は阿部が目を見開く。栄口は、そんな相手の反応を気にする風でもなくにこやかに続けた。

 

「大丈夫だよ、きっと集まるって。あー早く野球したいなぁ。受験で体なまってんだよね。あ、そうだ、阿部」

 

半ばあっけにとられながら呼びかけられて首だけで頷くと、彼は、心底嬉しそうに破顔する。

 

「今日の分終わったら、ちょっとキャッチボールしようよ」

いいけど」

「よし!じゃあ決まりね。やるぞ〜」

 

腕まくりでもするかのような勢いで栄口はくるりと阿部に背を向けて、再び外野方面の草むらへと戻っていく。短い髪の襟足の辺りが汗のせいか少し濡れていた。春先の柔らかな日差しも長い間座りこんで作業して浴びていれば暑い。

 

………

 

阿部は、その後姿を自分でも驚くほどの感慨を抱いて見つめた。

 

 目の前の、これからチームメイトになるだろう男は野球というスポーツにこんなにも嬉しそうに接するのだと思った。仮にもシニアに所属していたのだから、練習は決して楽ではなかったはずだし、あまり強いチームでもなかったから、悔しい思いも何度もしているだろう。

 

 それでも彼は、野球ができることが嬉しいのだ。

 キャッチボールをしたいとあんなにきれいに笑う。

 

 それは、自分がここ何年か心のどこかに置き去りにしてきたものを目の前に突き付けられたような、不思議な感覚だった。意気揚々と去っていく栄口の後姿を眩しくもないのに目を細めて阿部は見つめる。

 

(大体あいつ、何しに来たんだ)

 

わざわざ外野側からマウンドの方まで来て、また戻っていった栄口。

 

……変なヤツ)

 

思いながらも自分のなかにひどくあたたかいものが広がっていくのを感じないわけにはいかなかった。それは面と向かって向き合うにはあまりに複雑な感情で、阿部は敢えて深追いすることをしなかった。

 それでも、栄口の中学時代のチームメイトがバッターボックスに立つ前に彼を見たときの気持ちは少しだけ理解できたかもしれない。

 

 西浦を選んで正解だったと。

 いつか思える日が来るだろうかと阿部は思う。ほとんど投げやりに近い状態で選択した進路。榛名という存在を自分から突き放すために選んだ場所。

 

 そのとき阿部のなかに芽生えたものを中学と高校の狭間にいる彼が掴むことはなかった。

 自身の中の影にもたらされた一縷の光を阿部が自覚するのはもう少し先のことで、またそれが、最終的に旧い傷を癒してくれた最初の光であったと気づくのは、もっとずっと後のことになる。