「ちょっとトイレ」

 

 頑なに口を閉じて目を逸らす栄口を阿部は無表情で見つめる。見つめれば見つめるほどに栄口の視線は横へ横へと流れていく。眉は八の字になって眉間には皺が寄る。そして唇はもうほとんど真一文字と言っていいほどきつく引き結ばれていた。

 

「何がそんなに嫌なわけ」

 

顔を近づけた分だけ後ずさる栄口の腕を掴んで引き寄せた。さっきよりもよほど近づいた距離に栄口の頬が見る見る赤く染まるさまを、実のところ阿部は楽しんでいる。

 

「………場所」

 

なるほど、と頷きはするけれど聞き入れるかどうかは別の問題だ。

 

「誰もいねエじゃん」

「そういう問題じゃない」

 

部室だよ?と、ようやく阿部の目を見た栄口の瞳は語っているが、そんなことは百も承知である。

 

(てコトはすること自体が嫌ってわけじゃねェんだな)

 

彼がこだわっているのが場所で、行為そのものではないことを確認して阿部は内心の笑みを隠せない。それが顔に出たのか、栄口はまた恥ずかしそうに顔をそむけてしまう。

 

 そんな仕草ひとつひとつがいちいち可愛いなどとよもや本人は気づいてもいないのだろう。大体可愛いなんて表現は男には相応しくない。分かってはいるがそうとしか表現しようがないのだから仕方なかった。

 

 まるで逆効果の相手の所作に緩む頬を止められそうにない阿部はやべェなと胸のうちで呟く。

 

 じっと自分を見てくる阿部の視線に晒されるのがよほど恥ずかしいのか栄口が首を反らせるだけ反らすので握った彼の二の腕がきゅうっと締まって伸びる。女のように柔らかくはないが、引き締まったそこは阿部のてのひらにしっくり馴染んだ。

 あからさまに赤くなっている頬。下へ下へと視線を流すと、思い切り反らされた首筋で目が留まる。

 

(やべェ)

 

ごくりと喉が鳴った。首筋から胸元にかけての陽に焼けていない部分が仄かに色づいていた。

 

「ぎゃあ!」

 

突然首筋に感じた刺激に栄口から大きな声が上がる。色っぽいとはお世辞にも言えない叫び声だって彼の口から漏れたと思えば十分に阿部の聴覚を刺激した。

 

「ちょ、ちょ、阿部!なに?!」

「何が」

「だから何する気だよ!」

「説明して欲しいのか?」

「え?え?何で?!そっちなの?!」

「そっちってどっちだよ」

 

栄口が混乱するのも無理もない。阿部の行動は、もともと彼らがするのしないので押し問答をしていた原因をすっ飛んでしまっていた。よりによって阿部の口が、自分自身の口ではなくてほとんど胸元と言っていい程の首の根元に落とされたら栄口だって黙っているわけにはいかない。

 

「っお、っまえ!何考えてんだよ!」

「何想像してんだよ。栄口やーらしー」

「ふざけんな!」

「ふざけてねエよ」

 

がらりと表情も声音さえ変えてくる阿部に栄口はハッとする。しまったと思ったところでもう遅い。真正面から食って掛かってきた栄口を阿部はじっと見つめる。相手が自分の真剣な眼差しにめっぽう弱いことを分かっていての行動だ。

 案の定、視線も外せずに押し黙る栄口。阿部は目を細めて彼の腕を引いた。栄口の目が大きく見開かれる。構うことなくどんどん距離を詰めていく。

 

「ちょ、ちょっ!」

 

よほど部室でするのが嫌なのか、栄口は最後まで悪あがいた。

 

「ちょっとトイレ!」

「…………しらねー」

 

ムードのかけらもない栄口の一言に阿部が固まったのはほんの一瞬で、彼の最後の悪あがきはものの見事に玉砕した。

 

「あ、べ…ぇ」

「もう黙れ」

 

引き寄せて抱き締めて問答無用で口を塞いだ。きゅっと栄口の眉間に皺が寄る。もう、それすら。

 

 栄口が部室でのキスを嫌がることくらい阿部だって分かっていた。あまりにも日常の色が濃く、他者の気配の残像の強いこの空間で自分たちの関係を確認する行為を彼が嫌がるだろうことは。

 

(だからここでやりたくなンだよ)

 

次第に行為に夢中になっていく栄口に阿部はほくそ笑む。そうやって、いろいろなことが吹っ飛んでしまうくらいに求めてくればいい。部室だとか学校だとか、そんなくだらないこと考える余地もないくらい、自分に夢中になればいい。

 

 栄口の腕を握っている阿部の腕を、その栄口の手がぎゅっと掴む。必死で阿部に縋りつく彼は、目の前の男がその次のステップにまで及ぶ算段を立てていることなど思いもよらずにいるのだった。