「腐れ縁」

 

 「栄口!」

 

学食で昼を済ませ、午後イチの授業の教室へ向けて友人と歩いていた栄口の後ろからかかった声は、ほとんど毎日耳にしているもので、けれど学部が違うせいか学校ではあまり耳にしないものだった。

 半信半疑ながらも振り向くとやはり想像通りの人物がこちらに向かって走ってくるのが見えて栄口は隣の友人に断りを入れて立ち止まる。

 

「阿部じゃん。学校で会うなんて珍しいね」

「あー、今日こっちのセンターに用あったんだよ。まさか会えるとは思ってなかったけど、ラッキーだったな」

「どうしたの?」

「なんか実験長引きそうだから、悪ィんだけどオレの分の洗濯物も一緒に入れといてくんねェ?」

 

言いながら栄口の目の前にぬっと差し出された阿部の手の中には彼の家の鍵が握られている。そっけないキーホルダーがひとつついているだけのそれは間違いなく阿部がいつも持ち歩いているものだ。

 

「いいよ〜。オレ今日この後授業1個だけだしバイトもないし。阿部今日遅くなりそうなの?」

「遅いっつっても夜には帰る」

「そ?じゃあ夕飯はいつもどおりでいい?」

「いい。悪ィな、ビール買ってくっから!」

「はいよ〜」

 

鍵を受け取って慌しく去っていく阿部の後姿を見送る栄口だったが、すぐに隣からのもの問いたげな視線に気づいて首をまわす。大学で知り合った友人が奇妙な面持ちでこちらを見ていた。

 

「…誰?」

 

向けられた問いは簡潔だ。そういえば阿部が彼に挨拶のひとつもしないまま行ってしまったことに思い当たって、よっぽど急いでたんだなと栄口は胸のうちで苦笑する。

 

「ごめんごめん、なんか急いでたみたい。高校の同級生だよ」

 

阿部の代わりに謝ると、友人はへぇと目をまるくする。

 

「大学も一緒かよ」

「まあね。学部は違うんだけど」

「にしても何か変な会話だったな。お前ら同棲でもしてんの?」

 

鼻筋の通った顔をだらしなくにやけさせて相手が聞いてくるので、

 

「んなわけないだろ。隣に住んでるんだよ」

 

すぐさま否定すると、それはそれで彼にとっては衝撃だったらしい。

 

「マジ?!」

「マジ。つっても別に示し合わせたわけじゃなくて、偶然だけどね」

「へぇー。そんなことって有り得るんだな」

「オレも最初はビックリしたけど。でも結構便利だよ。阿部とは、あ、アイツ阿部隆也って言うんだけど。中高一緒で、高校では部活も一緒だったから気心知れてるっていうか」

「腐れ縁ってヤツだな」

「……うん、まあそんな感じ。だからいろいろ助け合えてさ。って、やばッ、10分切ってる!」

 

時計を見て少し足を急がせる。今いる場所から教室までは10分もあれば十分に間に合う距離だが、なかなか人気のある講義なのでギリギリすぎると席を取れなくなるのだ。

 

「でも今の会話はちょっとマズイぜ」

 

しかし相手はその程度の餌には釣られてはくれないらしい。余裕綽々の様子で、急ぎ出す栄口の隣に並ぶ。

 

「何が?」

「傍から見ると完全に新婚さんの会話だったぞ?」

「おっまえ、そーゆーこというのヤメロよなあ」

「栄口モテるのに彼女作んない理由分かったとか思ったもん」

「なにそれ。別にモテないし」

「照れるなって〜」

「あーもーうるさい」

 

ほとんど駆け足に近いくらいの早足でいくつもの校舎が両側に立ち並ぶ大きな通りを進んでいく間中、結局栄口は友人の好奇心の餌食となってしまった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 阿部が帰ってきたのは、食事の準備を済ませ洗濯物をたたみ終え、ついでに軽い片づけまで終わらせてひと段落ついた栄口が、テーブルの上に頭を載せてうとうとしていた時だった。

 ちょうど後ろにあるベッドに背を預けて正面のテレビを見ていた栄口だったが、網戸越しにゆるやかに入り込んでくる風があまりに心地よかったからなのか、はたまた夏季休暇明けの学校生活に未だ体が慣れていないのか、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。

 

 ガチャリとドアノブが回る音と阿部の声が遠くに聞こえはするが、それは沈みこんだ意識を覚醒させるにはあまりに弱かった。

 

「おい栄口、って寝てんのかよ」

 

部屋に足を踏み入れた阿部の足が止まる。あ、阿部帰ってきた。意識の淵で栄口はぼんやりと思う。起きなきゃ、と急かす心とは裏腹に睡魔に引きずり込まれた体はなかなか言うことを聞いてくれない。

 

「テレビつけっぱなしじゃねェか」

 

プチ、と電源の切れる音がする。ざわざわと部屋の中の喧騒を作り出していた電波の音がなくなって部屋は一気に静まり返る。こんなときに限って虫の音のひとつも聞こえなくて、網戸越しの風くらいでは拭えない静寂が狭いワンルームを満たした。

 

 まずい、と栄口は思った。

 

 完全に起きるタイミングを逸してしまったことに彼は気づく。

 

 阿部が近づいてくる気配がした。肩に掛けた鞄を置いて自分の隣にそっと腰を下ろしたのが分かる。

 そうして無骨な手のひらの感触を頭に感じてしまったら、栄口はもはや寝た振りに専念することしか出来なくなった。

 

 いつまでたっても短いままの栄口の髪を大きな手のひらがゆっくりと撫ぜていく。阿部の指が自分の髪の間から滑りこんで頭皮に触れる感触が栄口はすごく好きで、すごく怖い。

 中、高、大、と野球を生活の中心としてきた阿部の手は硬い。その硬い手が時折自分にひどく優しく触れることを栄口が知ったのは少し前。

 

 例えば、一緒に食事を作ったり部屋でだらだらしたりしているとき。

 例えば、こんな風に自分が眠っていると彼が思っているとき。

 

 前者は気づかないくらいさり気なく、後者は気づかずにはいられないくらいあからさまだ。

 

 阿部の手が動く。

 すうっと降りてきた彼の指が頬に触れる。ドキリとした。

 どうか起きているのがバレませんように、と栄口は祈る。

 節くれ立った指の外側で何度か頬っぺたを優しく押された。

 

 限界だった。

 

「うぅ…」

 

眉根を少し寄せて起きる素振りを見せるとパッと手が離れる。そしてすぐに戻ってきた指に今度はぎゅうっとほっぺたを強く摘まれた。

 

「…ッう。いった…」

 

目を開けて顔を上げる。

 

「おい、起きろ栄口」

「…阿部」

 

ふわあ、とあくびをして首をポキポキ鳴らして見せる。実際にさっきまでは寝ていたのだからそれは自然な動作なはずだった。

 

「あー、阿部おかえり」

「テレビつけっぱなしで寝てたぞ」

「げ。あ、消してくれたの?ありがと」

「メシは?」

「出来てるよ〜。あ、ビールだ!ありがと〜!」

「別に。ちょっと洗面所借りる」

「はいよ〜」

 

洗面所に向かいながら、あーうまそーなにおいする、と照れ隠しのように呟いた阿部の声が栄口に耳にはしっかりと届いて、バタンと扉が閉じられた音がした途端、テーブルの上にへたり込まずにはいられなかった。

 

「…………」

 

阿部のあれは、なんなんだろう、と栄口はこの数ヶ月、ずっと考えてきた。

 

 中学も一緒で(といってもほとんど話したことはなかったけれど)高校なんか部活も一緒で、大学まで一緒のところに行くことになって。蓋を開けて見れば借りたアパートも一緒だった。

 信じられない偶然だけど、でも正直、隣同士だと知ったときには結構安心したりもした。友人にも言った通り、阿部と栄口は高校時代、野球部の副主将同士ということもあって良好な関係を築いていた。仲良くやれると思ったし、慣れない土地で1人じゃなかったことに安堵を覚えてもいた。

 

(でも…)

 

今まで一度だって阿部は栄口にあんな素振りをしたことがなかった。高校の3年間、それこそ毎日のように共にいた。土ぼこりにまみれ、雑用をこなし、一緒に笑ったり泣いたりした。

 合宿では風呂だって一緒に入ったし、データの解析のために阿部の家に泊まったことだってあった。

 

 それでもあんな風に触れられたことなんてなかったのに。

 

 栄口は体を起こして阿部の姿が消えていった洗面所へと続く扉を知らず知らず凝視する。

 

『腐れ縁ってヤツだな』

 

……そう、そのはずだ。それだけのはずだ、阿部と自分の関係は。思うけれど、友人の言葉はそれだけでは終わってくれない。

 

『傍から見ると完全に新婚さんの会話だったぞ?』

『彼女作んない理由分かったとか思ったもん』

 

昼の友人の言葉が頭のなかをぐるぐるぐるぐる、廻り続ける。心なしか体が熱い。背中に変な汗、かいてる気がする。

 

「まじで……?」

 

呟く栄口の正面のドアがそのとき図らずも開いて、出てきた阿部とガチリと目が合ってしまった。

 

「!」

「何してんだお前。つーかなんか顔赤くねェ?」

「…な、んでもない……」

 

心配そうに声をかけてくれる阿部を振り切って栄口は、とにもかくにも無心で夕飯の仕度を整えることに専念するけれど。

 

(………まじで?!)

 

そんなことくらいで、気づいてしまった感情を追い払うことは到底、出来そうもなかった。