第一印象は
栄口勇人という名前はよく耳に入ってくる。 阿部が彼の事を知ったのは2年の頃だ。シニアの試合を観戦していたときにたまたま目に付いた選手を学校で見かけて、隣に居たヤツに名前を聞いたらすぐに答えが返ってきた。自分の学校の生徒会のことくらい知っておけ、とそのとき言われて、阿部は彼が生徒会副会長であることを知ったのだ。 クラスが違うからまともに会話をしたことはない。それでも栄口のプレイは目に焼き付いていたから他人の名前を覚えようとしない阿部も、彼の名は脳にインプットされた。
生徒会副会長というのは思ったよりも知名度が高いらしく、いざ覚えてみると栄口勇人の名前が周りで割と頻繁に交わされていることを知った。 その噂にマイナス要素が含まれていることはほとんどなく、胡散臭いまでの優等生っぷりに、なるほどそれが副会長という人種かなんてひとり納得したものだ。
シニアで野球をやっていて、生徒会の副会長を務めている。 阿部の栄口に対する知識なんてそんなものだった。プレイスタイルに好感は持ったけれど、本人にまで興味を持つほどではなかった。
あの日までは。
上手くも下手でもない教師の発音を聞き流して阿部は開いた教科書に視線を落とした。アルファベットを追っているわけではない。思い出していたのだ。先日、トイレ前で起きた不可解な現象のことを。
現象というのはいささか大袈裟だが、不可解という表現は適切だと阿部自身は思う。
先週だったか、女に告白されて、振った。次の日、別の女が謝れと言ってきた。便所に行こうとしたのを止められてだ。馬鹿馬鹿しい。
阿部の機嫌が当然のごとく急降下したそのとき、まさしく入ろうとしていた場所から出てきたのが栄口だった。 第三者の出現は阿部にとっては有り難い方向に働いて、少女は立ち去った。去り際に言われた言葉も阿部にとっては陳腐としか言いようがないもので、少し呆れてしまったくらいだ。
阿部はああいう状況に慣れていた。 面と向かって放たれる否定の言葉。向けられる好意、そして敵意。どれもこれも常に向こうから勝手にやってきて勝手に通り過ぎて行く。そうでないのは、こと野球に関することだけだ。
でも、あの時の栄口勇人は違った。
教科書から視線を外して黒板を見る。ノート横に置いてあったペンシルを手に持って書き写すけれど意識は内側に沈んだままだ。
彼は向かってこなかった。 そして通り過ぎもしなかった。
ただ視線だけがこちらを見据えている。あの日から、ずっと。
チャイムの音が響いて阿部はハッと意識をようやく外側に向ける。教師が壇上で何事かを話しているのを耳に入れながら残りの板書を急いで書き写した。
パシィン!
高く響く音は、人の肌が人の手によって張られる音だ。 張られた肌であるところの阿部は、張った手である少女をいつもと同じ通りに見返して彼女の怒りに染まった頬を少し綺麗だなんて思っていた。
「そんな言い方…、酷い」
ぽろりとこぼれ落ちる涙。女っていうのはなんでこんなにも泣く生き物なのか。阿部は張られた頬をさすりもしないで悠然と言い放つ。
「事実だから仕方ねェよ。オレ今野球以外に興味ねェし」 「でも、一度くらいいいじゃない」 「1日休んだら取り戻すのに3日かかるって知らねェだろ。勝手なこと言ってンな」 「………」
俯いた少女の長い黒髪がさらりと揺れる。しばらく黙って下を向いていた少女は、小さな声でポツリと、じゃあ、と言った。
「キスして」 「別に、」
いーけど、と言おうとしていた阿部の口が固まる。キスくらいで納得するならしてもいいと本気で思った。それが目的なら先に言えよ、くらいはこの時考えていたかもしれない。
けれど、校舎の影から突如現れた人物を阿部の目は認めてしまって。 肯定の言葉が喉の奥に飲み込まれた。
ごみ箱を抱えて驚いたようにこちらを見ている栄口勇人が、阿部たちのいる場所を通り過ぎた所にある焼却炉を目指してこの場に来たのは一目瞭然で、阿部は舌打ちをしたい気分に駆られる。はっきりと表情を見て取れるくらいには近い位置にいる相手が現在の状況を憶測できないはずがない。
2度も修羅場に出くわす彼と、2度も修羅場を見られる自分はどっちが運が悪いんだろうなとどうでもいいことをつかの間考える。
「もう帰れ」 「!」
どっと疲れた。気が変わった。阿部はもう、目の前の少女のためになにひとつしてやれないと思った。 彼女は呆然として、そしてしゃくりあげながら泣き出して、そのまま阿部の横を通り過ぎて。向かってきたものはまたもや彼を通り過ぎていく。
気配が動いた気がして阿部は意識を戻した。栄口が焼却炉に向かって歩いていく姿が目に入る。こちらを見ようともせず、ただ、鉄の塊に向かっていく彼の横顔。唇はきつく引き結ばれている。
ガコガコと音を立ててごみ箱の中身を燃え盛る炎の中に入れた栄口が踵を返してそのまま戻ろうとするので、つい呼び止めてしまった。
「栄口勇人」
ぴくりと動いた彼の体は前進をやめた。
「……なに」
ひたと見据えられるその眼差しは、先日向けられたものとはまた違っている気がした。
阿部はじっと相手をみる。 ちょうどこの間、栄口が阿部をただ見ていたように。
しばらく睨み合いのように交わっていた視線を外したのは栄口の方。外されたと思ったときには彼の声が阿部の鼓膜に飛び込んできた。
「オレは野球やってる阿部隆也が好きだよ」 「は?」
再び向けられる鋭い眼差しに、阿部ははじめて彼が怒っているのだということを理解する。そして混乱した。
「そんだけ」
パッと栄口の顔が進行方向を向いて、呼び止める前にその体が校舎へと吸い込まれていく。その潔いほど簡潔な動きは先日文句を言いに来た少女を連想させたけれど、阿部の心境はあのときとはまるで違っていた。
「………なんだよソレ」
呆然と呟く。あんなぞっとするような目で人を睨んでおいて。怒りに満ちたかおをして。
好きだなんて。
「!」
告白されたわけではない。分かっている。栄口は明らかな怒気を示していた。それも分かっている。向けられたのは好意ではないときちんと理解している。 それなのに高揚していく心と体を阿部は止められない。
「栄口勇人」
口の中で味わうその名は阿部にはじめての感覚をもたらした。
思えば、それがはじまりだった。 |