「ハジメテは女の子としたかったのに!」

 

 栄口の昼休みは大抵、巣山と2人でひとつの机を挟んで前後に座り。持参したお弁当を食べ。食べ終えたら少し駄弁るか、寝るか、である。 週に1、2回は主将からお呼びがかかって7組に行く。このときばかりは食べた後もミーティングがあったり、阿部に虐められた水谷を慰めたり、遊びにきた9組面子の世話を一手に引き受けたりと忙しく、休憩時間は瞬く間に過ぎて妙な疲労を抱え込んだまま午後の授業を受ける羽目になったりするのだが。

 

 しかし、今日はそのどちらでもなかった。

 栄口は現在、野球部の部室にいる。お昼を向かえた時点で立ち打ち出来ない睡魔に襲われて、昼食もそこそこに昼寝に来たのだ。

 

 しかしそこには誤算があった。

 先客がいたのである。

 

「あれ、阿部?」

 

畳の上に胡坐を掻いて座る阿部を入室と同時に発見した栄口は入り口で靴を脱いで近づいた。知り合いがいたら寄って行ってしまうのはほとんど条件反射というものだ。

 

「阿部も昼寝しに来たの」

「まァそんなとこ」

 

胡坐の上に置いた雑誌から顔を上げもしないで返事をする阿部にふうんと返しながらも大きなあくびがひとつ出る。ああもう駄目だ今すぐ寝てしまえ、と体の欲求に素直に従った栄口は、その場にゴロンと横になった。

 

 横になると、目の前に阿部の足がきて普段あまり拝めないアングルに少しだけ興味をそそられてしまう。閉じそうになる瞼に少し力を入れて見上げれば雑誌に注がれる阿部の視線を斜め下から垣間見ることが出来た。

 

 いつもの阿部の顔だ。

 薄い唇は閉じていて口角は上がっていない。無造作すぎるぼさぼさの黒髪。栄口の、陽に焼けて茶色がかった柔らかい髪とは対極にあるそれは、けれど、男っぽくて阿部に似合っている。

 眉だって剛毛だ。つり気味の眉毛の下にあるタレ目に映るものはもちろん栄口には視えず、よって感情も読み取れない。いや、みえたところで阿部の気持ちなんて分かんないかと胸のうちで訂正した。

 

(あ、でも実は目じりがちょっと優しいかも)

 

造作がいちいち男気がある阿部のパーツの中で、新たな事実を発見して栄口は少し楽しくなった。眠いことに変わりはないけれど、いつもの阿部の顔は下から見上げるだけでいつもと少し違うのだと感心する。

 長い睫毛が時折、瞬かれる。阿部は結構、睫毛ばしばしだ。

 笑いそうになってつい、視線を外して、何の気なしに阿部の足に支えられている雑誌に目を向けた。

 

「!」

 

けれどその先で見つけたものに栄口は思わず息を呑む。一瞬凝視したあと、パッと彼の目は伏せられた。

 

「なに」

「………」

 

声をかけられたタイミングがあまりに抜群で、阿部が自分の行動を逐一把握していたのだろうことを栄口は知る。じとりと睨んでやると、先程の無表情とは一転してひどく愉しそうな顔がそこにはあった。

 

「……なんでも。阿部もそんなの読むんだって思っただけだよ」

「別にオレのじゃねー。水谷が置いてったんだよ」

 

ヒマだから捲ってただけ、とうそぶく相手に、いつからここにいたんだよという愚問はとりあえず胸にしまった。脳裏にヘラリと憎めない笑顔が過ぎって栄口は深く嘆息する。それくらいしそうだ、水谷なら。

 頭に浮かんだ気の抜けた顔に毒気を抜かれたのか、栄口は視線を阿部の手元に戻した。位置上、表紙しか見えないけれどそれはなかなかに刺激的な代物のようだ。

 

 ビキニ、ビキニ、ビキニ。

 

 何かの特集なのか、数人の少女達がもはや衣類の目的を果たしていない過激な水着を着て胸を強調するポーズで読者を挑発している。表紙でこれなら中身は間違いなく。

 

 ―――間違いなく。

 

(…もう寝よう)

 

その先にたどり着く前に栄口は無理やり目を閉じた。先程あれだけくっつきそうだった瞼がうまく噛み合わないのが恨めしい。

 呼吸を整える。背中の畳が妙に熱い気がするが、おそらく熱いのは自分の方なんだろうなと思って少々、げんなりした。鼓動がいつもより早いのが自分で分かる。

 

「栄口って彼女いんだっけ」

「はあっ?!」

 

前触れなく振ってきた声に栄口は弾けたように目を開けた。ついでに体も起こそうとして、けれどそれはかなわなかった。阿部の左手が、右の肩を押してきたからだ。

 

「……いないけど」

 

なんとなく、抵抗できない雰囲気だった。阿部の手の力はさして強いわけではなくて押し返して起き上がるくらいわけない程度だというのにその手を押しのけることがなぜだか出来なかった。

 それは真上にある阿部の視線のせいかもしれない。見下ろしてくる彼の顔は、いつもとさして変わりないけれど瞳の色合いがどこかいつもと違う気がした。

 真下から見る阿部の目は同じ高さからみたときとは異なるとさっきも思ったけれど、それともまた違って。

 

「阿部は、いんの?」

 

妙に窮屈なその視線に耐えかねて逆に尋ねる。

 

「今はいない」

「え、じゃあ前はいたの?!」

「気になんの?」

「え」

 

口をついて出た質問に問い返されて栄口は言葉につまった。気になるか気にならないかと言われたら、そりゃあ気になる。自分の中であっさり出た答えを考えなしに、彼は馬鹿正直にも口に出してしまった。

 

「気になる」

「……」

 

虚を突かれたように一度、阿部の目が見開かれる。

 

「ふーん。教えてやろうか」

「うん」

 

教えてくれるなら教えて欲しいと、好奇心のままにありがたく阿部の言葉をちょうだいしていた栄口はよって近づいてきた顔に何の違和感も覚えなかった。部室とはいえ話題が話題である。阿部と言えどその手の話は耳打ちなんだとむしろ納得したくらいだ。

 

 だから、阿部の顔がどんどん自分に近づいてきて、ついにゼロになるその直前まで彼は事の重大さにまるで気づいていなかった。

 

「ちょっ!」

 

しかし何とか過ちの一歩手前で栄口の意識はその異常事態を認識する。血相を変えた栄口のひどく焦った声が部屋の中に大きく響き渡る。2人きりしかいない広い部屋にそれが反響して消える前に今度は別の声が上乗せされた。

 

「なに」

「なにって!何してんの?!」

「この状況でその質問かよ」

「え?!ええ!なっ?!」

 

栄口の頭の中は完全にパニックを起こしていた。目の前には阿部の顔、自分の両肩には阿部の手。強い力で畳に押し付けられている。

 

 ――――これって?!

 

「お前が教えろっていったんじゃねェか」

「それはっ!阿部は彼女いたのかって!」

「いたよ。したのはキスまで」

「!」

 

あっさりとカミングアウトしてくれちゃった頼れるキャッチに、栄口の思考は一瞬間持って行かれる。即断即決も阿部が良い捕手である理由のひとつであるけれど、それは今、この場の栄口にとっては全くもって脅威以外の何者でもなかった。

 

 隙の出来た栄口の肩から一瞬離れた阿部の手がそのまま手首へと移動する。

 

「っ!!」

 

それは両肩に置かれたものよりもよほど強い拘束だった。手首を捕まれて畳に縫い付けられる。逃げられない。

 

「阿部!待った!血迷うなっ」

「待たない」

「なんで?!オレなんかからかってもオモシロくねーって!」

「十分面白いけどな」

 

でもからかいたいわけじゃねーなんて阿部の呟きは、もはや栄口の耳には届いていなかった。

 

「ぎゃー!やだやだっ!オレ女とだってやったことないのにっ!」

「知ってる」

「なんでよ?!」

「なんでだろな?」

 

至近距離で阿部がにやりと笑う。それは凶器といっていいかもしれないくらいには悪どい笑い方で、栄口の背筋をぞぞぞっと明らかな悪寒が駆け上がった。

 

 ヘビに睨まれたカエルよろしく、近づいてくる阿部に対して栄口はもうどんな抵抗も出来なかった。信じられなくて、メモリーオーバーもいいとこで、力さえ入らない。

 

 阿部の黒い目が栄口をじっと見て。

 逸らすこともかなわなくて。

 でも最後の最後、阿部の吐息を唇に感じた瞬間に反射的に目を閉じてしまった。

 

「!」

 

けれども吐息のあとに感じたのは唇の感触ではなくてただ熱いだけの空気と。

 

「ばーか」

 

理不尽な声。

 

 不意にパッと戒めが解かれ、同時に阿部の気配が急速に遠のいていく。

 

「………」

 

訳が分からないまま栄口はそうっと目を開けた。つい先程まで天井すら見えないほど目の前一面にあった阿部の顔がきれいさっぱりなくなっていた。代わりのように聞こえてきたのは畳を歩く足音、そして、扉の開閉音。

 

 力の抜け切っているはずの体から、さらに力が抜けていく気が栄口はする。のろのろと、顔の両脇に投げ出された頼りない手を動かした。やがて口にたどり着いた指先がわずかに震えた。

 

「………っ」

 

途端についさっきのあらゆる感覚が蘇ってきて途惑う。

 

 肩に置かれた阿部の手。目の前にあった顔。締め付けられる手首の感触。近づいてくる黒い瞳。

 

 そして唇に触れた、熱い吐息。

 

 栄口は両手で顔を覆った。

 熱い。

 体中の熱が顔に集まったのではないかと思うほどに顔が熱い。

 

 いや、熱いのは顔だけではなかった。

 体中がどこも熱に浮かされているかのように火照っていて、汗まで滲んできそうだ。

 

「なにこれ…」

 

多分に当惑を含んで零れる声さえ熱っぽいことに栄口自身はまるで気づいていなかったけれど、その変化に気づいた者がいた。

 

 畳を歩いてくる足音にびくりと栄口の体が震える。

 確かにドアが開いて閉まる音が聞こえたのに、そしてそれは一度だけだったはずなのに、なぜに足音なんかが聞こえてくるのか。

 

 信じられない思いで仰向けのまま首だけを廻した先に彼が見たのは、言うまでもなく阿部の、いっそ清清しいほどに傲慢な笑みだった。