好きという言葉は曖昧過ぎて。

 言うにも、受け取るにも、

 

 本当のことは何も掴めない。

 

「…好きだ」

 

 好きと言われた。

 

 それは友達だと思っていたクラスメイトからの突然の告白だった。

 はじめての席替えで隣になった彼女は気さくに話しかけてくれて、栄口もどちらかというと社交的な性質であったから、2人はすぐに打ち解けた。

 それ以来、女子の中でも特別親しくしていたように思う。

 そう、彼女と栄口は仲が良かった。2人は良い友人だった。

 少なくとも栄口にとっては、女の子という要素を差し引いても特別な位置にいる、大事な友人だったのだ。

 

 ――栄口が好きなの

 

 大きな目に決意を秘めて彼女は言った。

 

 ――友達だと思われてるの知ってるよ

 ――それでもいいと思ってたけど、でもやっぱり駄目だった

 

 真っ直ぐに向けられる真剣な眼差し。こんな状況でも歯切れ良く、耳に心地よく響く潔い声。

 

 ――――栄口が好き

 

 いつも笑顔の少女の顔には緊張が見て取れて、肩が少し震えていて、ああ、女の子なんだと。

 

 そのときはじめて意識した。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 なにしてんの、と声をかけられて驚いた。

 

 昼に起きた出来事を処理し切れなかった栄口は、普段滅多にしない、いわゆるサボタージュというやつを実行中だった。

 教室棟の最上階、ほとんど屋上に近い、階段の一番上の踊り場。秋も深まったこの時期の屋上は晴天の午後でもとても寒い。だから一度開けた扉を閉めて、けれど戻る気にはなれなくて中途半端な場所で腰を下ろしたはいいが結局、隙間風に晒されて体は冷える一方で。

 

 けれど頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないと思いそのまま冷たいコンクリートに腰を下ろして、顔を膝にうずめて座っていたものだから他者の来訪に気づかなかった。

 思えば状況の割に随分と軽率な体勢をしていたものだが、授業中の屋上に来る者なんて限られる。目的は同じなのだから警戒を怠ってしまったのも無理もない話だった。

 

「阿部こそ」

「オレはサボり」

 

顔を上げるとそこには毎日見ている顔があって、ほっとする。この季節にこんな場所にのこのこやって来る物好きが阿部であったことが栄口としては少し嬉しくもあった。

 

 了承も得ないで隣に座る阿部に、栄口も黙って硬い床に手をついてちょっとだけ腰をずらして場所をつくる。もう半年以上、副主将として立場を同じくする2人は彼らだけの間合いのようなものを持っていて、お互いの間にあるそれを阿部も栄口も当たり前のように受け入れていた。

 

 ずらした分だけ冷えた床が尻に染みた。けれどそれは一瞬で、すぐに自分の体の熱が触れた部分だけが無機物に浸透していく。

 ワイシャツの上にジャージを着込んだだけの阿部は、パーカーを着ている栄口よりもよほど薄着だけれど寒さなど感じていないような様子で背中をコンクリートの冷たい壁に押し付けていた。

 

 こぶしふたつ分ほど挟んだ隣にいる阿部をそっと見る。目を閉じている相手に、こんなところに寝にくるなんて本当に物好きだなと栄口が半ば呆れながら思っていると、不意に瞼が持ち上がった。

 ゆっくりと現れた黒目が気だるげにこちらに向けられる。近くで見る阿部の目は、いつもの黒より深い色をしている気がした。

 

 だからつい口にしてしまったのは、その普段とは少し趣の違った視線に誘われたからなのかもしれない。

 

「阿部って好きなひといる?」

 

好き、という言葉は自分で言うと、先刻彼女が言ったものとはまったく違うものに聞こえた。

 

「……いる」

 

唐突な質問に顔色ひとつ変えないで阿部は、一途に栄口を見据えて簡潔な答えをくれた。へえ、と少し感心する。答えを返されるとは思っていなかったし、ましてやこの友人にそんな相手がいるなどとは予想もしていなかった。

 

「そっか」

「そっちは?」

「オレ?」

 

当然返されるであろう問いにしかし、栄口はなんの準備もしていなかった。阿部のようにすぐには返事が出来ない。いつもより近い距離で自分を見つめてくる見慣れた瞳に急に居心地の悪さを感じて、目を伏せた。

 

 ――――栄口が好き

 

 耳に蘇る少女の声は少し震えていて、脳裏に蘇る彼女の表情は胸に迫るものがある。

 

 確かに、ある。

 ―――けれど。

 

「!」

 

昼間の友人――とまだ呼んでもいいのかは分からないけれど――を思い出していた栄口は、ひやりとした感触を手の甲に感じてハッと顔をあげた。

 

 飛び込んできたのは先程よりも近くにある友の顔。

 

「……」

 

阿部、と名前を呼ぼうとしてそれが喉の奥に飲み込まれたのは、大きなショックを受けたからだ。

 

 真っ直ぐにこちらを見ている阿部の目。床についていた手に重ねられた体温の低い手のひら。栄口は驚いていた。

 阿部からもたらされたそのふたつのものは栄口の内側を嵐のように駆け抜けて、そして、先ほど恋を告げられたときには湧き上がってはこなかった感情の渦に自分が飲み込まれていくのが分かった。

 

 それが何かと問われても決してこたえることが出来ない類のもの。

 

 ――――栄口が好きよ

 

 頭の中では確かに彼女の声が響いているのに、強張った唇が訴えかけてくるのに、それに意識を向ける余裕がないほど目の前の存在に全部を攫われてしまいそうになる。目が離せなくて、少女の声が表情が、どんどん遠のいていくのを追いかけることができない。

 

 同時に、代わりのように近づいてくるのは毎日目にしているチームメイトの、いつもよりずっと真剣な顔だ。

 

 こんな阿部は見たことがあるようで見たことがない。

 

 出会ったときから変わらない、聡明そうな彫りの深い顔がもうすぐそこまできている。栄口の目の前一面が阿部の目元でいっぱいになる。

 

「……!」

 

距離がゼロになる寸前、ふと感じた他者の吐息に思わず体を引いた。重ねられている手は逃げられなくて上半身だけが後退するけれどすぐに後ろの壁に背が当たる。コンクリートの壁はひどく冷たいはずなのにまったく温度を感じられなかった。

 そうこうしているうちに阿部のもう一方の手が顔の横にそっと置かれる。逃げ場所は完全に塞がれた。

 

 そのまま、近づいて。

 

「ふっ」

 

くるかと思った目の前の顔は、けれどもあろうことか、あと数センチというところで突如、噴き出した。

 

「なっ!」

「お前今、すげェ変な顔してる」

「はあ?!」

 

言うに事欠いてその台詞。

 

 はあ?!!なんなの?!

 ふざけんなよっ!!

 

 一瞬のうちに頭に浮かんだ罵詈雑言を容赦なく相手に投げつけてやろうと栄口は大きく口を開く、が。

 放られる前にそれは全部、当の阿部によって飲み込まれてしまった。

 

「………っ!!」

 

否応なくもたらされたのは触れるだけだなんていう生易しいものではなくて、栄口の上と下の唇は阿部の同じものによってまるで懐柔されるがごとく、食まれて、吸われて、容赦なんて欠片もなく、奪われた。

 からかいだとかお遊びだとかいう一線を明らかに逸脱したその行為は栄口を混乱の淵に陥れたけれど、代わりに、何よりも雄弁でもあった。

 

 くしゃりと髪を掴まれる。

 そろりそろりと阿部の指が手の甲を這う。

 

「栄口」

 

離れた唇に呼ばれた名前が吐息となって口付けてきて、続けて足された言葉に体中が震え上がった。

 

 ぎゅっと目をつぶったところで最早阿部以外のものは何ひとつ栄口の中に入ってきてはくれない。

 彼女の声も、表情も、姿も、想いも、言葉も。

 

 …好き

 

 告白さえ。全てが今、自分を完全に捕まえた相手のものとすり替わって、そうしてそれが、自分の内外をとめどなく熱くしていることに感付かないわけにはいかなくて、栄口は。

 

 目を開ける覚悟をした。