1組と7組
今年は冷夏になるでしょう、という気象予報士の予想を大きくはずれて真夏を髣髴とさせる暑い日々が続いていた。梅雨にさんざん降った雨は既に役割を果たしたとでも思っているのか、その気配すら見せない。上空には見渡す限り青が広がり、空は果てしなく遠かった。
「阿部!」
ぼんやりとしていた阿部の意識を引き戻したのは歯切れのよい声だ。暑さのせいかぼうっとしていた頭を軽く2、3度振って声がした方に目を遣れば、見慣れた坊主頭とちゃらけた茶髪がこちらに歩いてきていた。Tシャツにジャージという、いつもよりも動きやすい格好をした花井が阿部が振り向いたのを確認して上げていた片手をおろした。その隣では水谷が、こちらもポロシャツに短パンといつもよりもラフな格好で歩いている。
「そろそろ始まるぞ」 「ああ、今行く」 「どっか応援してたの?」 「別に。暑ィから涼んでただけ」 「ふーん。ホントあっちぃよね〜」
間延びした水谷の相槌を適当に流して阿部は花井の隣に並んだ。
「他の奴らは?」 「9組はサッカー順当に勝ってるみたいだな」 「まああそこは田島いるしな」 「だな。3組と1組はわかんねェ」 「栄口と巣山は今試合中だと思うよ。さっき勝ったって栄口からメール来たし」
水谷の発言に花井が少し驚いたように彼を見る。
「おまえらそんな仲良かったっけ?」 「んー、結構メールはするかな。オレが一方的に送ることの方が多いけど、栄口律儀だからちゃんと返してくれんだよね」
へー、と感心する花井の横で阿部は額から吹き出す汗を乱暴に拭くことで沸々とわき起こりそうになる苛々を押しとどめた。 栄口が律儀なのはその通りで、実際、阿部からの伝達メールの返信はすぐに来るしそうではないごく私的なものへの対応も速い上に丁寧だ。だから水谷からのメールにだってもちろん、きちんと返しているのだろう。
そんなのは当たり前だ。栄口にとって、阿部も水谷も等しく部活の仲間なのだから。相手が花井だって他の部員だって、栄口はきっと同じ対応をする。分かっているのに、いや、分かっているからこそなのか、突きつけられられた事実につかの間揺さぶられそうになる。 阿部はシャツの袖で肌を擦った。しかし額の汗を拭いても首もとからじわじわと吹き出すぬるい水気を押さえられない。今日は本当にひどく暑い。
「あれ?」
阿部が内心穏やかでないことなどもちろん知らない水谷は、唐突に頓狂な声を上げた。水谷のこういう無邪気なところは本来ならば美点なのだろうが、こと阿部においては見事なほど神経を逆撫でする要素にしかならない。理不尽な怒りのままに水谷をひどい形相で睨みつけるけれど、幸か不幸か水谷の視線は外側に向けられていた。むしろそれを目の当たりにしたのは彼らの間にいた花井で、ぎょっと目を見開くさまが少々、哀れである。
しかしすぐに水谷の口から発された続きがその、友人をぎょっとさせた目差しを一瞬のうちに払拭させた。
「栄口―!巣山―!」
おーい、と大きく手を振る水谷に向こうからやってきた2人の少年は気づいたらしかった。手を振り返して進もうとしていた方向を逸れてこちらに向かってくる2人の姿は太陽を背に負っていて眩しくて、阿部は知らず目を細めた。
「試合中なんじゃなかったの〜?」 「はは、相手がすげー強くてさァ、瞬殺されちゃったよ」
情けなさそうに頭を掻く栄口に巣山も苦笑しながら頷いた。
「そうなんだ。でもお疲れ〜!」 「ありがと。水谷たちは今からだっけ?」 「そう!応援来てよ!」 「泉に応援行くって約束したから、それ終わったらね」 「泉たちは田島いるから大丈夫だって〜」 「確かに」
水谷の説得力のある一言に栄口は頷くが、だからと言って行き先を変更する気はないようだ。水谷もおそらくそれを分かっていて言ったのだろう、9組の試合が終わったら見に来るという栄口の言葉に満足したようで彼らの試合のことに話は移っていた。
夏の初戦、王者桐青を激戦の末下した西浦の面々は今は球技大会に参加中である。暑さの増すこの時期の球技など歓迎されないかというとそうでもなく、生徒たちは期末のうっぷんを晴らすかのようにそれぞれに参加するスポーツを楽しんでいた。
梅雨が明けて訪れた初夏という名の名称だけは涼しげな季節は猛暑の到来を肌身に予測させるほどに暑く、昼の太陽の日射しと言ったら立っているだけで汗がとめどなく染みてくるほどだ。室内で行われるバスケやバレーならばまだしも、外で行われる球技の参加者たちには容赦なく太陽がじりじりと肌を焼く。大勢の生徒が行き交うグラウンドでは特に申し訳程度に吹く風に砂埃があおられて乾いた宙を舞って、そのほこりっぽさが息苦しさまでもをもたらしていた。
「しかし暑ィな」
隣の花井が呟いた言葉をぼんやりと聞き流していた阿部に、くるりと坊主頭を回転させて声の主がこちらを向く。
「阿部?」 「なに」
呼びかけられて顔を向ける。困惑を多分に含んだ表情をして花井が一瞬躊躇したあと口を開いた。
「いや、返事なかったからさ」 「……」
何と返事をするか迷っていると、突然顔の前にぬっと手があらわれた。阿部が驚いて体を後ろに引こうとするその一瞬前、目と目の間に指がそっと押し当てられる。
「!」 「阿部、眉間に皺寄りすぎ」
いつの間にか阿倍の目の前に来ていた栄口は人差し指の腹で彼の眉間をとんとんと叩いて悪びれない顔でにかっと笑う。
ぎょっとしたのは周りにいた部員たちだ。ただでさえ不機嫌そうな阿部のこと、どんな罵詈雑言が栄口相手に飛ぶかと心配するが、相手はあの阿部である。遠巻きながらハラハラと見つめるしかない彼らを責めるのはいささか酷というものだ。 しかしその一連の様子を一切察していないらしい当の栄口はあろうことか自ら危険区域である阿部の隣に落ち着いてしまう。普段は過ぎるくらいの気遣いを見せる彼なのに、肝心なところで鈍い栄口を止める術をその場にいた誰も持っていなかった。
「暑いからって機嫌悪くなるなんて、子どもじゃないんだから」
(栄口………!!)
ちょうど3人分、心の叫びは重なる。
阿部はと言うと、栄口の完全に的を外れた指摘に一度ぽかんとしたけれどすぐに呆れているとも怒っているともつかない態度でそのまま相手を見返した。
「別に悪くねェよ」 「阿部は顔が怖いんだからさ、眉間に皺なんか寄ってたらすげェ怒ってるように見えんの」 「おまえみたいにいつもヘラヘラしてられるかよ」 「あ、それひどくない?」 「てめーの方がよっぽどひでェ」
阿部は栄口の手首を握って指を自分の顔から遠ざけた。しっかりとした骨格を持つ男の手首はそれでも自分のものより随分と細いことに阿部は驚く。 そういえばこいつ、身長の割に体重が少ないんだよなと、部員の身体データをある程度頭に入れてある捕手としての思考がそのとき先行した阿部は、そのままの頭で行動を起こした。
「ぎゃあっ!」
結果、栄口から妙な叫び声があがった。
「お前ちゃんと食ってる?出塁率高ェんだから体つくっとかねェと怪我すンぞ」
相手の動揺になど意も介さずにぬっと伸びた阿部の手は隣にいる栄口の脇下から腰の辺りをするっと撫でる。しかも、何度も。
「く、食ってるよ!」 「その割には細すぎじゃね?」 「ばか阿部!脇、さっわん、なあ!」
身体チェックのように体を触られて栄口は恥ずかしいやらくすぐったいやらで体をひねって逃げようとするが、それは捕手と内野手の差、がしっと逞しい腕に捕まえられてはのがれようがなかった。
そんな2人の様子を見て、あれェ、と間の抜けた声を出したのは水谷だ。
「なんか、意外な展開…?」 「意外っつーか、なんつうか…」
受ける花井は今すぐに目の前の人目を憚らない悪ふざけ(無論、阿部の一方的な)を止めたいけれど何となく割って入りづらく、なぜ入りづらいのかと考えるけれどその答えは掴まえられそうでなかなか手中に落ちてはこない。落ちてくることを彼の賢明な本能が拒否しているのだと、さすがの花井もまだ気づいてはいなかった。
「栄口と阿部って、仲良かったんだな…」
彼らの前方では栄口と同じクラスの巣山が少しばかりショックを受けたように呟いている。
「まァ同中だしな…」
よく分からない理屈でまとめあげた花井は、逃げまどう栄口といつの間にか先程の剣呑な表情を消し去っている阿部を、不可解な面持ちで見つめながらなんとも勇気のあることに、割り入るタイミングを測っているのだった |