「ヒドイ奴」

 

 午後の授業が始まる少し前に資料室へ向かっていたのは、その日日直だった栄口が日本史の教材資料を担当教師から教室に運ぶよう頼まれていたからだった。

 資料室は1年の教室がある校舎練から少し離れたところにあるため早めに教室を出て資料室へ行き、黒板ほどの大きさはあると思われる巨大な日本地図を丸めて運び出し、栄口は余裕を持って教室に戻ろうとしていた。

 

 急ぐ必要もないのでぶらぶらと窓の外を眺めながらのんびりと歩く。資料室のある校舎の3階からは学校の敷地がほとんど見渡せて、いつも通る、正門を入ってからの緑あふれる坂や、万葉の庭と呼ばれる中庭、野球部が部室としているプール横の部室棟も見渡せた。いつも練習で使っている第2グラウンドは反対側なのでこの位置からは見えないのが残念だ。

 春休みには阿部と2人で、そして新学期に入ってからはみんなで念入りに整備して今では立派な野球場となったグラウンドは高い場所から見たらまた異なった感慨が沸いてくるにちがいなかった。

 

 高みからの景色に別れを告げて栄口は階段を下りはじめた。地図は大きいが軽いので運ぶこと自体はさして苦ではないけれど前が見え辛くて階段を下りるには少し不便だ。

 足を踏み外さないように慎重に歩を進める栄口の足が、半分ほどくだったところでふと止まる。

 

「阿部くん、待って!」

 

足を止めると同時に聞こえてきた高い声に栄口はぎょっとした。思わず音を立てないように階段の途中に座りこんでしまったのはそれが明らかに女子の声で、その切羽詰まった様子に本能的に状況を汲み取ってしまったからだ。

 

(阿部って……)

 

「悪いけど興味ねェから」

 

まさか、と思う思考を読むかのようなタイミングでそのあまりにも聞きなれた無愛想な声は栄口の耳に飛び込んできた。ぎゅうっと腕の中でくるまれた紙を握り締める。阿部の、普段の何倍も不機嫌な声に当事者ではないくせに肝が冷えて、情けないことにそのまま硬直して動けない。

 

 教室のある校舎とは別に資料室や図書室などの特別室が入っているここは、教室練よりも生徒の往き来が格段に少ない。告白する場所としては絶好であって、彼女の選択は決して間違っていないのだが、今じゃなくてもと思わずにはいられない栄口である。

 

 しかも今は昼休みだ。

 生徒はこの校舎にはまず来ないし、教師だって教員室か、もしくは外で昼を取っている時間である。加えて言えば、2階から3階に上るこの階段は教室練からは遠回りになるため1日を通しても使用率が低い。

 つまりは、今この空間にはしばらく彼ら3人しかいないということになる。

 

 栄口は、先程思わず座りこんでしまったことをひどく後悔していた。あのときすぐに、気づかれないように階段を上って廊下を通り反対側の階段を下りていれば。

 阿部君、という名前の人物が誰なのか多少は気になったかもしれないけれど、今の状況に比べればそのくらいの気がかりですめばどれほど良かっただろうか。栄口はキリキリと痛みそうになる腹のことを考えないようにしながら息を潜めていた。

 

「どうして?彼女いなかったよね?」

「いねェけど」

「じゃあ」

「だからって好きでもねェ女と付き合う気ねェよ」

 

吸った息をゆっくりと吐きだしながらあまりの言い草に栄口はうなだれる。確かに彼の言うことは正論だ。正論だけれど、阿部は言い方と言うものを考慮してもばちは当たらないと思う。

 阿部は口が悪い。それは彼が裏表のない男である証明でもあって、栄口などはさして気にもしないが、そうは思わない者も多い。

 阿部のことをなんだかんだで気に入っていたりする栄口としてはマイナスの部分ばかりが先立って彼が評価されてしまうことが残念でもあり時折、悔しくもあるのだ。

 

「そんなんじゃ納得できない!」

 

考え込む栄口を引き戻すかのように少女の甲高い声が響いた。なかなかに強情な手合いのようだ。それともよほど自分に自信があるのだろうか。どちらにしろ、自分は阿部が今どんな表情をしているかと想像するだけでぶるりと背筋が震えるのにたいしたものだと、栄口は半ば感嘆すらしていた。

 

「彼女も好きな子もいないならつきあってみてよ。それから決めてもいいじゃない。阿部くんが損することなんて一個もないよ?」

「くだらねェ」

 

阿部の声がいよいよ剣呑な雰囲気をあらわにしてきて栄口はひとり焦り始める。阿部は男女の間の対応に差をつけたりはしない類の人間だ。つまりそれは、女子だとて容赦はしないということだ。

 

(は、早まるな阿部!)

 

口も態度も悪い阿部はなにより手が早い。いつも阿部を苛々させる水谷が彼にぼかすか殴られている光景が一瞬の内に脳裏に浮かんで思わず栄口の腰が浮く。

 

 けれど、栄口の心配は次の阿部の一言で杞憂に終わった。

 

「それに好きな奴がいねェなんて言ってねーだろ」

 

阿部と相対している少女と栄口はほぼ同時に息を呑んだ。

 

「いるの?」

「お前に教えてやる義理はねェけどな」

「本当に?」

「嘘なんかついてもしょうがねェだろ」

「誰」

 

明らかに苛々している阿部に気づきもしないで、あろうかとかのその質問にさすがに栄口も今度は眉をしかめる。

 

「教えねェ。もう良いだろ、さっさと戻れよ」

 

きっぱりとした阿部の言葉にさすがに彼の意思の固さを思い知ったのだろうか、ようやく階段を下りていく一対の足音が聞こえはじめる。とんとんとんと名残惜しげに遠ざかる靴にしかし栄口は少しの同情の念も沸いてこなかった。

 

 あまりに一方的な感情だ。

 

 顔を上げていられなくて栄口はうつむく。

 彼女は阿部が必死にボールを追う練習中の姿とか、三橋とコミュニケーションを取るために日々必死なことだとか、相手のためを思って人に厳しく出来るところだとかを、きっと何も知らないのだ。

 

 見てくれのいい外見と、見るからに頭の回転の速そうな雰囲気と、夏の大会で活躍したことに俄か知識をプラスして阿部という人物を評価して事に及んだのだろう。

 

 熱いものが込み上げてくるのを押さえられなくて目をつぶった。ぐっと奥歯を噛み締めて日本地図の端をぎゅっと握り締める。

 

 それがとても悔しい。

 阿部の良いところはそんな目に見えるところばかりじゃないのに。

 何も知らないで勝手に彼を判断して。

 そしてヒドイ男だと言い触らすのだろうか。

 

 湧き上がる怒りを押さえるように座りこんだ体勢のまま栄口はゆっくりと大きく吸った息を細長く吐きだした。

 

「オイ」

「!」

「お前その紙さっきからみえみえなんだよ…って何泣いてンだ?!」

「な、泣いてないっ!」

 

まさか阿部が、自分がこの場にいることに気づいているなど思いもしなかった栄口は、阿部に指摘されて慌てて目をごしごしとこする。

 

「ばぁか、こすったら赤くなるだろ」

 

腕を取られた。ついでというように抱えていたどでかい地図をも奪い取られてぽかんとしている栄口に、

 

「いつまでも座ってンなよ、そろそろ昼終わンぞ」

 

阿部はそれだけ言って素知らぬ振りで階段を下りていく。その後姿を呆けたように見ていた栄口の目に、唐突に、今度こそボロボロと涙が溢れてしまう。

 

「早くしろ…ってお前だからなんで泣いてンだよ?!」

 

振り向いた阿部がぎょっとした顔で戻ってくる。

 

「オレは!」

 

それを制するように座ったまま叫んだ栄口は再び俯いて、一気に息を吸い込んだ。

 

「お前がもし不細工でも頭悪くてもダメキャッチャーだとしても!オレはお前のこと好きだから!」

 

一気に言いきってふうと息を吐きだすと少しすっきりした。ごしごしともう一度腕で目をこする。すっきりしたのがよかったのか、涙も止まった。

 栄口は俯いたままほっとする。けれどさすがにこの年で泣き顔を臆面もなく晒したのが恥ずかしくて、なかなか顔を上げられないでいた。

 

 だから彼は知らない。

 このとき、彼の言葉を聞いた阿部がどんな表情で彼を見返していたのかを。

 

「………だからこすんなって」

 

また腕を取られて今度は栄口も顔を上げた。見上げた先では阿部が栄口をじいっと見つめていた。

 

「……?」

 

阿部の顔を見た栄口の胸の奥をそのとき、何かが掠る。けれどそれはごくわずかな感覚で本人が自覚するにはあまりにも些細な変化だったので、彼がそれに気づくことはなかった。

 一方阿部は栄口の腕を握り締めたまま動かない。その瞳に過ぎる眩しいものを見るような影にも栄口は気づかなかった。

 

「阿部?」

 

名を呼ぶと、ぎゅっと強く腕を握られて驚く。しかしそれは一瞬で、阿部はパッとその戒めを解いた。

 

「お前さ」

「?」

 

改めて彼の顔を見遣ると阿部はいつもの阿部らしい、ニヤリと言う表現がいかにも相応しい顔つきで栄口に笑いかける。口の端を1センチほど上げるお得意の表情で阿部は栄口を見下ろしていた。

 

「つまりオレのこと顔が良くて頭も良い上にすげェキャッチャーで、めちゃめちゃ格好良いって思ってンだ?」

「な!そ、そんなこと言ってねーよ!」

「だってそういうことだろ」

「違うってば!」

「照れるなよ」

 

にやにや笑いながら阿部は軽快に階段を下りていく。その憎たらしい後姿に栄口は、結局叫ばずにはいられなかった。

 

「やっぱり阿部はヒドイ奴だよ!」

 

罵声を背中に受けているとは思えないほど、彼にしては非常に珍しい嬉しそうな顔を阿部がしているとは知りもしないで。