中学時代

 

 阿部隆也という人物はとにかく有名だ。

 栄口の通う中学はさほど大きな学校ではないので、校内でのあれこれはすぐに全校生徒の知るところとなる。だれそれが校舎裏でキスをしていたとか、英語と美術の先生は実はデキてるだとか。こと恋愛ごとに関しては信憑性のあるものから眉唾ものまで様々な情報が飛び交う。

 

 同級生の阿部隆也は、頭脳明晰で顔が良い上に、有名シニアチームの正捕手を務めるおまけまでつくので生徒たちの興味の恰好の対象となっているようだった。

 

 クラスが違うので話したことはない。噂で耳にする彼に対する印象はとにかく、極端、の一言に尽きる。賞賛と中傷をこれだけ一手に集める人物もそう多くはないのではないだろうかと、どちらもそんなに受ける機会のない栄口などは思ってしまう。

 

 栄口が阿部を思い描くとき、大抵は防具を付けてホームベースの後ろで座っている姿が浮かぶ。学校で見かけることもたまにはあるけれど、栄口にとってはユニフォームを着てグラウンドにいるインパクトが強すぎて、ワイシャツに学ラン、と言われてもどことなくぼんやりとした像しか思い浮かべられない。

 

「2組の清水、阿部に告白して玉砕したって聞いたか?」

「マジで?!あの清水をか〜、さすが阿部」

「オレも告白されてェー!」

「すっげェ手酷く振られたらしい」

「なになに」

 

今日も友人たちの間で交わされる阿部隆也の噂。栄口はぼんやりと次の時間の準備をしながら、耳に入ってくる隣の席の声を聞き流していた。

 

「清水もさー、モテんじゃん。美人だし。だからプライド傷ついたみたいで相当食い下がったらしいんだよ。そしたらうぜェの一言で切り捨てられたって」

「ひでー!」

「阿部こっえー!」

 

わあわあと騒ぐ男子陣を尻目に、トイレ行っとこうかな、とガタ、と椅子を引いて席を立った栄口を目ざとく見咎めたのか、そのうちのひとりに呼び止められた。

 

「そういや栄口もシニアで野球やってんだろ?」

「やってるよ」

「阿部と対戦したことってあんの?」

「阿部ンとこは別ブロックだから」

 

首を振る。相手はふうん、と頷いて、

 

「阿部って上手いわけ?」

 

などと聞いてくるものだから栄口は困ったように笑った。

 

「阿部のチームは去年関東でベスト16までいってる強豪で、阿部はそこの正捕手だよ」

「げぇっカンペキじゃん」

「頭よくて顔も良くてスポーツ万能かよ〜」

 

降参、というように両手をあげるクラスメイトをそのままに栄口は教室を出る。本当のことを言えば、ベスト16の立役者は恐らく阿部ではなくエースの方だ。けれどもそれを敢えて彼らに教える必要性を感じなかった。

 

 

 噂をすれば影、とはこのことか。

 正確に言えば噂をしていたのは栄口ではないけれど、そう思わずにはいられないこのタイミング。

 クラスの離れている阿部を見かけることなんてそんなに多くはないのにこういう時に限って出くわす間の悪さに、洗った手をハンカチで拭きながらトイレから出てきた栄口は思わず、足を止めてしまった。

 漂ってくる険悪な空気を察することが出来ずにほいほい廊下に出てしまった自分を呪えば良いのか、トイレ前なんていう場所で睨み合っている彼らを謗れば良いのか。

 

「もういいだろ。通行の邪魔みてェだし」

「謝って、って言ってるの」

 

阿部隆也と、……多分、2組の女子。

 

 これはアレだな、と栄口はピンと来た。

 

「景子、学校まで休んでるのよ?!」

 

景子とは、清水さんの下の名前だよなと頭の中で確認する。

 

「知らねェよ」

 

阿部隆也の言葉はまさしく切って捨てるかのようで栄口は、そのひどく冷たい声に思わず目を見張る。木枯らしのような冷たさだ。

 

「サイッテー」

 

栄口が驚いて身動きがとれないでいる間に彼女は会話に見切りをつけたらしい。いや、もしかしたらその場に無関係の人間がいることが嫌だったのかもしれない。

 ひらりとスカートの裾を翻すさまはきびきびとしていてそんなところにまで気の強さが滲み出ていた。

 

 捨て台詞を残して去った少女。

 残された当事者である阿部と無関係の栄口。

 

(……ええと)

 

気まずさは拭えない。ちらりとつい、阿部を見遣ってしまう。

 

 彼の横顔は無表情だった。飄々としていると言ってしまってもいい。

 あんなことを言って、言われて、それでも彼の頬の筋肉がわずかも動いていないことが栄口は不思議でならなくて、まじまじと見てしまったのがまずかった。

 

「なに」

 

さっき少女に向けたのと同様の、切れ味鋭い声が栄口を襲う。同じようにキツイ視線付きだ。

 

「………」

 

なぜだろう、そのとき栄口の胸を、悲しみに似た気持ちが徐々に徐々に覆っていって、返事を返すことが出来なかった。

 

 向けられる厳しい眼差しにグラウンドでの彼の姿が重なる。別ブロックではあるけれど近いし強いので、栄口は阿部のチームの試合や練習をシニアのメンバーとよく見に行っていた。

 白球に向けられる彼の目はいつも真摯で張り上げる声は力強かった。

 

 今、彼の目はそのときの目と少しも変わらない気がする。

 それなのにクラスメイトからは恰好のネタにされ、女の子からは最低と評されるのか。

 

 何も言わない栄口に阿部の眉が不審そうに歪んで、徐々にそれさえなくなって、最後にはただ、逆に不思議そうに見返された。

 

 それでも栄口は何も返すことが出来なくて、す、と一歩足を踏み出した。そのまま阿部の目の前を通り過ぎる。当の阿部が唖然とした顔をしたのに気づきもしないで、遠ざかる背中に思わず彼が声をかけそうになったことも知らないで、ただ栄口は、ひどく沈んだ気持ちで教室への帰途についたのだった。