ハニー・ムーン・バースデー

 
 チン!
 日曜の朝、キッチンから聞こえてくるレンジの音を阿部は目覚まし代わりにしている。
 ふあ、と大きなあくびをひとつしてダブルサイズのベッドを軋ませた。隣にいつもある色素の薄い短く刈られた頭は、今は扉の向こうだ。昔から変わらない栄口の髪型が阿部は好きで、起きぬけに形のいいそれをひと撫でするのはもっと好きなのだけれど、日曜の朝はおあずけである。
 その代わりにひたひたと床を歩いてリビングダイニングへ続くドアを開ければ、パンの焼ける好い香りが部屋中に漂っていた。
 
「阿部、おはよ」
「おー」
「今日も良い天気だよ」
 
正面にある大きな窓から差し込む朝の光が起きたばかりの目に眩しい。カウンターの向こうにいる栄口が、その上にコーヒーカップを置きながら笑いかけてくる。手前に置かれた4人掛けのテーブルには既にサラダやらスクランブルエッグやらが載った皿が並べられていた。
 
 ロサンゼルスの6月なんて、そうそう雨なんて降らないから今日もいつもどおりの快晴だった。
 これは今日は暑くなりそうだと思いながら阿部はキッチンの横を通り抜けてバスルームへと向かった。
 
 
 「今日、どうする」
 
肩を並べて立つ流し台は、日曜の朝の彼らの風景だ。阿部は料理が得意ではないから料理担当は栄口だけれど、その片付けは二人でやる。代わりにトイレやバスの掃除は阿部がして、洗濯は栄口が受け持っている。一度阿部にやらせたところ、洗濯機から出したままの状態で干されたせいで新品のシャツの皺が取れなくなった。さんざん文句を言った後、栄口は洗濯担当を自分に戻したのだ。
 
「一日休み貰ったんだろ?」
「貰ったよ」
「どっか行くか?」
「そうだねェ」
「んだよ、その煮え切らねー返事」
 
最後のコップを乾燥機の中に置いて、キュ、と蛇口を閉める。栄口はタオルで手を拭きながらうーん、と首を傾げた。
 
「仕事してる時はさ、アレしたいコレしたいとかって思うんだけど。まァ、思う暇もないときもあるけど。でもいざ休みってなると思いつかないんだよねェ」
「そのアレコレを言ってみろよ」
「うーん……」
 
煮え切らない栄口に阿部はイラッとするけれど、自身の気の短さを自覚している彼もさすがに今日はそれを自粛しようと心に決めている。
 
「じゃあナイター観ようよ、テレビで」
「はァ?!」
 
しばらくあらぬ方向に目をやっていた栄口が出した答えに、けれども阿部は先程の誓いをいとも簡単に破ることになった。
 
「お前オレが何度も誘ってんのにいつも断ってんじゃねーか!!しかもテレビってなんだよ!大体ナイターって夜だろ夜!今何時だと思ってんだ!」
「だって阿部の試合に招待されてもさ」
「ああ?!」
 
思いつく突っ込みを全部並べ立てても、栄口はどこ吹く風で肩を竦める。
 
「なんか、恥ずかしいし」
「何が」
「…なんとなく」
「別にお前の誕生日だからってホームランプレゼントしたりしねェーよ」
「言っとくけど、ホームアウトもいらないから」
「………」
 
素早い切り返しに阿部は黙る。その沈黙は、彼の胸のうちを相手に伝えるには十分だったようで、あからさまにうんざりした顔をされた。今のはちょっと傷ついた。しかし栄口はすぐにしょうがないなって顔をして、
 
「阿部さァ、前に自分がオレに言ったこと覚えてる?」
 
ちらとこちらを見遣ってきた。相手の方がいくらか身長が低いから、自然と見上げる形になるその上目遣いは阿部の気に入りのひとつなのだけれど、本人には言っていない。
 そうとも知らないで栄口は、口の端をく、とあげて、挑戦的な眼差しを向けてくる。
 
(…やべェ)
 
「いい加減オレの一番欲しいものくらい分かれよ」
 
勝ち誇ったように見上げてこられたら、もう限界だった。
 
 手を拭く手間さえ惜しくて、すぐ隣の体を引き寄せる。まだ乾いていない水滴の飛沫が飛ぶ様が残像のようだった。
 唐突な阿部の行動に目を見開く栄口の顔が目の端に見えたけれど、構わずに目を閉じた。同時に塞いだ唇を啄ばむように何度も何度も角度を変えて求めると、うっすらと招くように口が開かれたから、阿部はそのままその奥へ。
 
「……………ッ!!」

 いこうとして、すねを思い切り蹴られた。

 
わずかの容赦もない蹴りは阿部の弁慶の泣き所を直撃して、声さえ出ない。痛みを堪えて辛うじて目の前の相手を見ると、目尻を赤く染めて目をきつく吊り上げている。
 
「そうじゃねーよ!」
「じゃあなんだよ」
「おまっ…!当然みたいな顔してんな!」
「じゃあどうしたいわけ」
 
すねをさすりながら見上げると、栄口は顔を赤らめたまま眉根を寄せて見下ろしてくる。
 
(……なんだよ)
 
しばらくあー、とかうーとか唸っていたが、阿部が黙ったままでいると諦めたようにはあ、とひとつ、息を吐いて肩を落として。
 
「だから、たまの休みくらい家で一緒にいたいじゃん…」
「言えんじゃねーか」
「てめー…」
 
心底悔しそうな顔で吐きだした相手を見上げてにやりと笑うと、落とした彼の肩がまた上がる。穏やかではない感じに眉間に皺が寄せられて、怒りの滲む目で阿部を見下ろしてくるのだけれど。
 
(上から見られるのも悪くねェな)
 
このときの阿部の、相手の心情など全く意に介していない胸のうちを、恐らく栄口は一生知らない方が良いだろう。