目覚めた魚

 

 ねえねえ、あの2人何かあったのかなあ?

 

 グラウンドの整備中、トンボをずるずると引っ張って来てわざわざ耳元に口を寄せて言われた言葉に泉は「はァ?」とあからさまに顔を顰めた。

 

「うわ。泉、阿部みたい」

 

怖!と仰け反る水谷に少しだけ阿部の苛々する気持ちを理解してしまう泉であるが、そこはそこ、阿部よりはよほど大人な彼は邪険にしたりはしない。

 

「あの2人って?」

「栄口と阿部だよ〜」

 

返ってきた名前は予想通りで、泉は内心、水谷の観察眼をちょっとだけ見直した。

 

「何かって何だよ」

「えー、何かさァ…」

 

うーん。と、グラ整そっちのけでトンボの柄のてっぺんに顎をのせて考え出す水谷をその阿部が見たら烈火の如く怒るだろうなと思いながら泉は、そんな水谷の様子を冷静に観察していた。

 

 水谷の言いたいことは分かっている。

 事情を知る泉は彼らの変化の理由を知っていた。2人から直接聞いたわけではないけれど、なにせ発破をかけたのは泉自身だ。おそらく栄口は、泉が勘付いていることを知らないだろう。阿部もきっとあの日のことを彼には言っていないに違いない。

 

 律儀な栄口は問題が解決した旨とお礼を自分に言ってきたけれど、その内容には触れなかった。妥当な選択だ。男同士で恋愛なんて正直、普通じゃない。彼が言及できないのは至極もっともなことだった。水臭いと思わないわけではなかったけれど、躊躇する気持ちは理解できたから追求したりはしなかった。

 

 泉としては栄口に彼らしい笑顔が戻ったのだから、それで良しとすることにしたのだ。

 

(でも今度泣かせたらただじゃおかねェ)

 

などと物騒なことを思いながら放ったらかしにしていた水谷に意識を向けると、相変わらず眉を八の字にして考え込んでいる。放置していたらいつまでだって立ち尽くしていそうな目の前の相手の様子に、仕方なく自ら水を向けた。

 

「まァ最近仲いいよな、あいつら」

「やっぱり?!やっぱり泉もそう思う?!」

「まァな」

「そうなんだよ!!なんか最近、オレ1組行くと栄口いなくてさ!待ってると、阿部と一緒に帰ってくンの!ねェねェこれってどういうことだと思う?!それにあいつらって確かに帰り道同じだけどさ、いっつも一緒に帰ってんだよ!しかもさ、栄口ってば7組に来ても阿部とばっかしゃべってるしさぁー!!」

 

オレさびしー!!と必死に訴えてくるさまはまるで母親を取られた子供のようだ。最後の方は水谷の被害妄想だろうが前者はおそらく、本当のことなのだろう。栄口はともかく、阿部の意外なマメさに多少驚く泉である。

 

「それにさ」

 

話半分で適当に聞き流していた泉だったが、トンボをぎゅっと握りなおしてトーンを落とした水谷に気が引かれて相手を見遣る。グラウンドの土に向けられている伏せられた目がパチパチと何度も瞬かれて長い睫毛が何度も重なっては離れた。

 土の上を撫でるトンボが、部員によって荒らされたグラウンドをなだらかなものにしていく。とぼとぼと歩き始めた水谷の後ろには彼のスパイクの跡がぽつぽつと残った。

 

「栄口、阿部にはすげェいい顔で笑うんだよ」

「………」

 

泉はその隣には並ばずに水谷の少し後ろをついていく形でトンボをかけた。

 

「ま、栄口が笑ってくれるンならそれでいいんだけどさ!」

 

しかし水谷はすぐにいつもどおりの明るい声であははと笑った。その分かりやす過ぎるカラ元気に泉はそっとため息を吐いた。

 

「水谷!泉!グラ整そろそろ終わらせろよ〜。帰りに三橋ん家寄ってくことになったから!」

 

ベンチの方から聞こえてきたのは図らずも栄口の声だった。振り向けば遠くに見える栄口がぶんぶんと片手を振って合図を送っている。先に部室に引き上げたはずなのに、わざわざ知らせるために戻ってきてくれたらしい。

 

「すぐ行くー!」

 

硬直している水谷に代わって泉はベンチに向かって手を上げた。

 

「お、オレも!すぐ行く!!」

 

泉の声に、弾かれるようにびくりと体を震わせた水谷は慌てて両手をぶんぶん振る。支えを失ったトンボがぐらりと倒れてきて、わたわたする水谷の落ち着きのなさに、遠くから笑い声が届いた。

 

「何やってんだよ水谷ー!早く来いよ!」

 

満面の笑顔を向けられて思わず顔が綻ぶ水谷の横顔を泉はなんとも言えない心持ちで見つめた。

 

 栄口は手を振って、そのままフェンスを開けて去って行く。その後姿がしばらく歩いてふと止まった。かと思うと彼は駆け出した。向かう先に誰がいるのかなんてあまりにも明白だったけれど自然と目が追ってしまう。

 

 阿部の黒髪は遠くからでもよく目立った。栄口の行く先にいたのはやはり思った通り彼で、泉は敢えてそのまま2人の様子を眺めることで隣の水谷を見ないようにした。きっとひどい顔をしているに違いない。

 

 近づいた栄口の頭を阿部はくしゃくしゃと撫でて、彼から手を払われていた。抵抗されたのが癪に触ったのか、執拗に相手に触ろうとする阿部から慌てて離れようとする栄口がけれど決して嫌がっていないのは遠目にも分かった。

 距離を詰めようとする阿部と逃げつつも拒否はしない栄口はそのままじゃれ合いながら見えなくなっていった。

 

 彼らが見えなくなった方向に目を向けたまま、泉は彼らは隣の相手の目にどう映っただろうと想像する。

 

 泉にしてみればイチャついているようにしか見えなかったが、それは自分が彼らの関係を知っているからだとも思う。何も知らないはずの水谷から見て、今の光景は度の過ぎた友情くらいに映っただろうか。

 

「あの2人ってさァ…」

 

妙に静かな声が聞こえて隣を見た。水谷は真っ直ぐに彼らが去った先を見つめている。

 

「なァんか親密だよねェ」

 

その言葉はゾッとするほど冷たさを帯びているような気がして目をみはる。けれど視線は声ほど冷淡ではなく、どちらかというと痛みを耐えてでもいるかのように感じられた。

 泉は一瞬迷って、けれど思い切って口を開いた。

 

「あいつら同中だしな。オレらより付き合い長いからじゃねーの」

「うん、そうだね」

 

思いのほかあっさりと納得した水谷は先程のノロノロ具合とは打って変わって、トンボに重心を預けて大股で歩き出した。

 

「ほら、泉さっさと済ませようぜ!栄口も早く来いって言ってたし!」

「おまっ、ちょ、待て!」

 

走りださんばかりの勢いでトンボをかけ始める水谷を泉は呆れたように追いかける。

 

 水谷の背中に傾き始めた陽の光があたって黒のアンダーシャツが妙に毒々しい色に見えた。さっき、もしかしたら水谷の方を見ておくべきだったのかもしれないと何とはなしに泉は思う。

 

 去っていく二人の影を思い起こして、目の前の男を見遣った。

 

(阿部のことだから先手くらいは打ってそうだけどな…)

 

自分が気づいたくらいなのだから阿部はとうの昔に水谷の中に芽生えているものを感づいているに違いない。

 

(…しっかりつかまえとけよ)

 

案外、曲者かもしれない頼りない背中をじっと凝視して泉は、部室で相対した時の阿部の真剣な眼差しを思い出しながら、もう一度阿部と栄口が去っていった方角に顔を向けた。

 

 誰もいないグラウンドの外にはいつもと変わらないのどかな風景が広がっていた。