トゥルルル、トゥルルル
 
 「Hello?」
 
コール2回で携帯電話をひったくった栄口はキーボードを打つ手をそのままに頬と肩で小型機を挟んで首を傾けた。
 
 オフィスの中では電話がひっきりなしに鳴っている。
 様々な人が行き交い、喜怒哀楽の声が飛ぶ。
 真剣な面持ちで電話対応をしている者もいれば、奥の応接室でにこやかに接客をしている者もいる。なかには、団欒スペースで仲間と談笑している者も。
 
 つい先日、ロスに異動してきたばかりの栄口はクライアントの引継ぎ業務に追われていた。栄口が所属する法律事務所は業界の中では中堅レベルだが業務は幅広い。法人から個人までなんでもござれだ。
 
 しかし栄口個人の携帯にかけてくるということはどちらでもない。上司か、同僚か。仕事の延長上でしかモノを考えていなかった栄口は相手側の第一声に度肝を抜かれた。
 
『栄口くん?』
 
滑らかに盤上を動いていた指が見事に停止する。
 
「……しのーか?」
 
半信半疑、恐る恐る搾り出された声は小さかったけれど相手は聞き取ってくれたようだ。ふふ、と彼女の懐かしい、柔らかい笑い声が受話器越しに耳をくすぐった。
 
『久しぶりだね!』
 
思いがけない人物からの電話につい席を立って栄口は廊下に出る。「久しぶりじゃん!どうしたの?!」とテンション高めで盛り上がるが、その数分後に。
 
「あああぁああぁあ!」
 
血相を変えてオフィスに戻ってくることになることを、彼は知らない。
 
And After Caramel Lovers
 
 ブウウゥン、とジーンズの尻ポケットに入れていた物体が鈍い振動を伝えてきて阿部はそのブツをひょいと手に取った。耳に当てる前にウィンドウを確認して、少しだけ目が見開かれた。珍しい名前だ。
 
「よぉ」
 
それでも慣れた口調で話しかけると電話の向こうで、明るい笑い声が上がる。
 
『久しぶり!阿部くん!』
「おー」
『……ふふ、相変わらずだね。阿部くんも、栄口くんも!』
「はあ?」
 
およそ1年以上連絡を取っていない相手への第一声とは思えない阿部の反応を気にもしないで接してくる篠岡は、その淡白な対応をむしろ嬉しく思ってでもいそうな弾んだ口調で話し出した。
 
『さっき栄口くんにも電話したんだけど、阿部くんに言っておいた方がいいかなと思って。来月の終わりにね、そっちに行こうかと思ってるんだけど』
「へぇ。旅行かなんか?」
『そんなところ。それで良かったら会えないかと思ったんだけど、ロサンゼルスに引っ越しちゃったんだってね』
 
栄口の異動の件に関してはまだ誰にも伝えていないから、篠岡は2人ともニューヨークに滞在しているものと思って電話したらしい。
 
『阿部くんも、一緒なんでしょ?』
「…ああ、まあな」
『そっか』
 
阿部の応答に篠岡の声音がふわりとゆるむ。
 
『よかった』
 
大きな目が見えなくなるくらいの満面の笑みを浮かべていそうな彼女の口調に阿部は少々、気恥ずかしいような申し訳ないような、バツの悪い思いに駆られなければならなかった。
 
 仕事で渡米した栄口を阿部に追いかけさせたのは、他ならぬ篠岡だ。
 高校時代、阿部が栄口に向ける普通でない感情にはじめて気づいたのが彼女だった。
 なぜ分かったのかと問うたとき、私も同じだからと少女は微笑った。
 同じだけど、少し違う、とも。
 
 ――私のは叶わない恋だよ。だって言う気ないもん。
 ――一緒に笑って、側にいられるだけで十分なの。
 
 ――ただの憧れ。
 
 でも阿部くんは違うでしょ、と言ってこちらを見返す彼女の表情がとてもただの憧れには阿部には思えなかったけれど、何も言ってやれなかった。
 
『それでね!』
 
いつもの調子に戻った今の篠岡の声が阿部の耳を割く。
 
 ――行きなよ!アメリカ!
 
 そう言って背中を押してくれたあの時と同じ、底抜けに優しくて明るい、少女のままの声で篠岡は心底楽しそうにうふふ、と含み笑った。
 
『さっき栄口くんに電話したときにね…』
 
意気揚々と彼女が話しだした内容は、つまり。その少し前に彼女がかけた電話によって、栄口をおおいに慌てさせることになったそれなのだけれど。
 
 
 
 
 
***
 
 
 
 
 
 目を開けたとき、まさしく視界に飛び込んできたものに一瞬、阿部は脳内を支配された。ほんの数秒真っ白になった頭の中は、けれどすぐに寝起きとは思えない速さで回復する。
 そう、自分がどうやら転寝をしてしまったらしいことを阿部はすぐに理解した。
 篠岡から電話がかかってきて、それで色々と昔を思い出しているうちに寝入ってしまったようだ。新しい家に引っ越すと同時に購入したソファは大の男でも3人は座れるくらいは幅があって、スプリングが利いていて座り心地が良い。寝心地だって抜群だ。
 しかし今現在、阿部を寝心地よくさせていたのはソファではなかった。
 
「…なにやってんの」
「………ひざ、まくら?」
 
目を開けた当初から困ったような顔でこちらを見つめていた栄口は阿部の問いに小首を傾げた。なんで疑問形なんだよ、とその昔さんざん気弱な投手相手に投げかけた文句を栄口に向ける。思い出の余韻からまだ覚めていないのかもしれない。
 
 痩せぎすの栄口の太腿なんて、高価なソファに比べれば気持ち良さでは天と地ほどの差があるだろうに自分にとってのその価値はまるで真逆なのだから我ながら手に負えないと阿部は内心で含み笑う。
 反対に相手は慣れない行動に緊張しているのか、実に居心地が悪そうなのが余計に笑えた。
 
「珍しいな」
「……なにが」
「膝枕も、お前が家にいるのも」
 
意地悪を承知で言ってやるとバツが悪そうに視線がずらされる。くく、と喉を鳴らして阿部は片手を持ち上げた。指の先が栄口の頬と、耳の下と、首筋を捕らえた。ハッとしてこちらに再び瞳が向けられた瞬間を逃さずにゆっくりとそのまま引き下ろせば栄口の顔も一緒に降りてくる。
 
 おずおずと重ねられたかさついた唇を丹念に舐めた。
 舌を入れるとピクリと頭の下が動いたが、静止の声はなかった。
 
(ほんと、珍しい)
 
思わず耐え切れない笑い声が口をついて出てしまって、すると途端に温もりが口から離れていく。距離の出来た栄口の顔をまじまじと見てやる。今度は逸らさないでちょっと怒ったように見つめ返してくるから阿部はタネ明かしをしてやった。
 
「篠岡になんか言われたのかよ」
「っ!な、んで、ソレ…」
「あいつオレにも電話してきたんだよ。オレの誕生日のこと、篠岡から聞いたんだろ?」
「……ごめん」
「なにが」
「忘れてて」
「別にいーよ」
 
本当に特に気にもしていなかった阿部はそう言うけれど、栄口は納得していないようで。
 
「オレ、明日休みもらったから」
「へぇ」
「だから阿部の欲しいもの買いに行こうよ」
「おまえ、ガキじゃねーんだからさ」
 
半ば呆れて言い返すが栄口は本気のようだ。異動したばかりの栄口は多忙を極めていて、ほとんど家にも帰って来られない。そんな中で1日休みを取るということがどれだけ大変か、サラリーマン経験のない阿部には想像もつかない。
 だから今この場に彼がいるだけで十分満たされているのだけれど、栄口はその辺をまるで分かっていないのだ。
 
「とりあえず、もう夕飯時だしなんか食べる?」
「つくってくれんの」
「一応買い物はしてきたよ」
「んー」
 
阿部は、しばし考える。腹は減っている。でも今肯定すれば栄口は席を立つことになる。結論はすぐに出た。
 
 上向けていた体を横に直して阿部は、栄口の腹に自分の顔を押し付けた。
 
「!」
 
びくん、と震える体に両腕を廻す。
 
「阿部…」
 
困りきったらしい栄口が助けを求めるように名前を呼ぶので腹に抱きついたまま相手を見上げた。
 
「お前さァ、いい加減オレの一番欲しいものくらい分かれよ」
「………っ」
「つーわけでしばらくこのままな」
 
じっ、と見つめたまま言ってやると、栄口の目が1度大きく開かれてそして部活の頃の面影がなりを潜めた色白の頬が目に見えて赤くなっていく。
 
「…阿部こそ」
 
しかし栄口も言われてばかりではない。目尻もほっぺたも真っ赤に染め上げたままいっそ睨むかのような強い視線で阿部を見返してくる。
 
「この体勢でそんな恰好良いこと言わないでくれる」
「へぇ、恰好良かったか?」
「……良くない」
「嘘つけ。今恰好良いっていったじゃねェか」
「言ってない」
「栄口、ひとつ良いこと教えてやる」
「…なに」
 
阿部の言う良いこと、が良いことのはずがないと分かってはいるが、栄口は訝しげな表情を浮かべながらも聞き返してしまった。
 
「12月11日のこと覚えてるか?」
「え?」
「あの日何したか覚えてるかって言ってんの」
「11日……?」
 
目線を斜め上に巡らせて必死に記憶を引き出していた栄口が、あ、という顔したのを見計らって阿部はす、と栄口のわき腹を撫ぜた。
 
「っ!」
 
声にならない声をあげる栄口に向けて、そうだよ、と阿部が浮かべたのは、
 
「お前が出てくって言った日だよ」
 
あの日と同じ、微笑みだった。