驚かれるだろうなとは思っていた。
 罵倒くらいはされるかもしれないと覚悟すらしていた。
 
 でも、現実は違ってた。
 
 オレは甘かった。
 とんでもなく甘かった。
 
 実際には。
 
 オレはそのときはじめて、阿部の本気を思い知らされたんだ。
 
シーソーゲーム症候群
 
 寒い。そしてひたすらに眠い。
 
 仕事を終えて久しぶりに我が家に帰ってきた栄口は、刺すように冷たい部屋の空気にぶるりと身を震わせつつ、暖房を入れることも風呂で体を温めることも思いつかずに自室に向かう。
 
 眠い、眠い、眠い。
 
 それだけが今の栄口を衝き動かす原動力だ。
 ダウンジャケットをソファに投げてベッドにダイブする。久方ぶりの人の重さにスプリングが軽い悲鳴を上げた。
 
 ニューヨークの冬は極寒だ。
 特に深夜から明け方にかけて街は冷凍庫のように凍りつく。それにくらべれば部屋の中の寒さなどはまだ可愛いほうである。
 わざわざ日本から持ってきた愛用の毛布と布団を手探って、そのぬくもりにもぐりこんだあとはひたすらに、どこかの歌ではないけれど、泥のように深く眠りに沈んだ。
 その傍らに在るものを確認することもしないで。
 
 
 
 
 
***
 
 
 
 
 
 まどろみから僅かに浮上した意識にまずのぼったのは、あたたかい、という感覚だった。
 毛布にくるまっているのだからもちろん寒いはずがないのだけれどそういったぬくもりではない。そんな無機質なものではなくて、もっと、まさしくぬくもりと呼ぶのにふさわしい類のものだ。そう、言うなればそれは、人肌――――、
 
「!」
 
目が覚めた。
 
「よぉ」
 
同時に、ぬくもりの正体を栄口は知る。しばたいた目の先に阿部の顔があった。口の端を少しだけあげる意地の悪い笑い方。ああ、やっぱり阿部だと寝起きの頭で反芻する。
 
「…いつ?」
「昨日」
「オレ…」
「おまえ気づかねーで寝ちまうんだもん」
 
質問はすべて言葉尻だけで疎通が出来てしまった。ふあ、とあくびをしてみじろぐとくすぐってェ、と阿部は笑った。栄口の髪が阿部の顎をなぜたのだろう。
 
「っ」
 
そこでようやく自分が阿部に、恋人同士がするかのように抱きしめられていることに気がついた栄口は思わず体を離そうとするが、上半身を相手の腕に絡め取られている状態ではそれもかなわない。
 さすがトリプルエーのマイナーリーグチームでならしているだけあって、生地越しでもその逞しさを否応なく感じさせられる。すこぶる良かった今期の戦績のおかげでメジャーからお呼びがかかってもおかしくないとまで噂される阿部と、競技スポーツから何年も遠ざかっている栄口。立ち打ちできようはずもなかった。
 
 近すぎる距離が苦しい。ちょうど阿部の胸板に当たっている耳から心臓の音まで聞こえてきそうだ。
 
 栄口は、身じろぎすら出来ないでいた。
 こちらに来てからの阿部はストレートだ。自分の感情を隠さない。想いのままに行動する。阿部に言わせればそれを教えたのは栄口本人なのだそうだけれど。
 
『態度であからさまに示さねェといくらでも逃げられるってお前がオレに教えたんだよ』
 
いつだかの言葉を思い出す。事実、今の阿部は、好きだという言葉を態度を微塵も隠そうとしない。
 
 阿部の言葉どおり逃げ道を絶たれた栄口はそれを甘受するしかなくて己を包み込む緩いくせにひどく固い拘束の中で途方にくれる。突っぱねることは出来なかった。栄口にとっても阿部は他には変え難い、大切な人だ。
 けれどそれが阿部の抱くものと同じ類かどうかの判断がつかない。
 
 ずっと。
 
 生まれ故郷を遠く離れたこの地で彼と再会してからずっと。いや、本当はもっと前から、栄口は自分の中で阿部隆也を位置づけしかねている。
 
「栄口、寝たのか?」
 
阿部の声に内に向かっていた意識が一気に外に開く。一拍して首が振られたのを確認した阿部は不意にパッと両腕の戒めを解いた。
 
「もう昼だけどなんか取るか?」
「ああ、冷蔵庫になんかあったっけな…」
「何も。飲み物とサラダは買っておいた」
「ありがと」
 
解かれた鎖が再び絡む前に栄口は毛布をはいで床に投げ出されている靴を片方だけ履いた。放置していたのに靴の中は冷たくなかった。そういえば、部屋の中にもはや冷気はない。
 
「暖房付けた?」
 
ありがと、とベッドを降りながら言うと、
 
「おう」
 
背中に返事が返される。体調管理には特別気を配っている彼なので当然と言えば当然だった。高校時代バッテリーだった三橋への管理の徹底振りはそう言えばすごかったな、とふと懐かしい記憶が呼び覚まされた。
 
「キッチン行くけどなんかいる?」
 
部屋のドアノブに手を掛けながら振り返る。といっても、阿部が買ってきてくれた飲み物とサラダしかないらしいのだが。
 しかし栄口は、振り返ったことをすぐに後悔することになった。阿部に伺いなんて立てずにさっさとキッチンへ移動してしまえばよかったと今更思ってももう遅い。
 
 阿部は、日本で言えばセミダブルくらいの大きさはあるベッドの上で悠然と栄口を見据えていた。
 
「なァ栄口」
 
ここ数年でぐっと低くなったテノールが明らかな意思をもって栄口の名前を呼ぶ。ただでさえ乾いていた喉がカラカラになりそうな、そんな呼び声。思わずノブを握る手に力が入った。
 
「お前もうオレが同じベッドにいても違和感感じねェんだな」
「!」
 
わずかに笑みを含んだ調子で言われてサッと栄口の頬に赤みが差す。言われてみればその通りだった。阿部と栄口はルームシェアをしているが、それぞれの部屋を持っている。2人で住めばひとりよりも格段に良い物件に住めると阿部に乗せられて借りた部屋は、リビングとキッチンに加えて部屋が2つで最寄の地下鉄から徒歩2分という好物件。
 
 しかし阿部は、自分の部屋があるにも関わらず栄口のもとを頻繁に訪れてともすれば一緒に寝ようとすることが度々あった。特に、気持ちを隠すことをしなくなってからは。その度にいちいち彼を追い出していた栄口だったのに。
 
「……阿部がいるなんて昨日は知らなかった」
「でも起きたときに気づいただろ?」
 
苦し紛れの言い訳など一息で吹き飛ばされてしまう。返す言葉がなくて口を閉じると、
 
「コーヒー用意しといて。オレも着替えたらそっち行く」
 
何事もなかったかのように先の返事を返される。わざわざ用意された逃げ道を辿るのはひどく居心地が悪いが、それ以外が断崖絶壁にしか続いていないなら通らないわけにはいかない。
 
 わかった、と頷いて栄口は自室を後にした。
 
 …オレも着替えなきゃ。
 
 もそりと口の中で呟く。
 よれたパンツとくしゃくしゃのシャツが妙に重くなった気がした。
 
 
 コポコポ、コポコポ
 コーヒーメーカーが立てる呑気な音に耳を澄ませて黒い液体がガラスの器に溜まっていくのを栄口はぼんやりと眺めていた。
 マグカップふたつと、牛乳。これは自分用だ。阿部はコーヒーはブラックだから。それらを流し横のタイル張りのスペースにコーヒーメーカーと共に並べて、ぼんやりと。
 
 休みの日くらいしか本来の目的で使われないキッチンは2人暮らし用だけあって割合広い。片手程度の幅はある流し台の左側にはベージュのタイル、右側には三口コンロ。栄口は学生時代から台所に立つ習慣があったから料理はお手のものだ。忙しくてめっきり機会はなくなってしまったけれど腕は落ちていない。たまの休みにキッチンに立つと三口あるコンロは全て埋まって、テーブルの上に4、5品は並ぶ。
 阿部などはそれを楽しみにしているけれど、如何せん栄口は多忙を極めるし、阿部も転戦が多いため折角借りた家にさえお互い帰れないことの方が多かった。
 
 今日だって、栄口が自宅に戻ったのは1週間振りくらいだったのだ。シーズンオフの阿部が家にいるだろうことは予想していた。まさか自分の部屋のベッドにもぐりこんでいるなんて思いもしなかったけれど。
 
「………」
 
そこまで思って栄口は頭の中を流暢に流れていた言葉を止める。
 
 ………うそかもしれない。
 
 言い訳のように内心で驚いてみせる自分が滑稽だった。
 
 ほとんど落ちきったコーヒーを未練がましく待ってしまうのは、いっぱいに液体が溜まってしまった頃合を見計らって阿部がキッチンに来るだろうことを知っているからだ。
 体内時計でもあるのか、いつも彼は抜群のタイミングであらわれる。
 
 搾り出すように最後のひと液が落ちたのを確認してサーバーを手にすると予想通り後ろでキッチンの扉が開く音がする。ガタリと椅子が引かれた後は、新聞でも読んでいるのだろう、紙擦れと液体がマグカップに注がれるトポトポという音が部屋を満たした。
 
 沈黙が自然だ。
 2人きりの空間、コーヒーの香りと新聞を繰る音。
 寝起きをこんなに穏やかに過ごすのは久しぶりだった。
 
(最近、忙しかったからなァ…)
 
ここ1週間ほどの自分のスケジュールを思い起こして栄口は苦笑してしまう。平均2時間の睡眠時間は仮眠と呼ぶ方が正しいかもしれない。膨大な仕事と引継ぎ作業を両立した数日間は本当に目の回る思いだった。
 異動の知らせを受けたのがちょうど一週間前で、時代遅れの黒縁眼鏡がシルバーブロンドの短髪に良く似合う二枚目の上司はただ一言。「ユート、来週からロスに行くことになったよ」その瞬間、栄口は東の果てから西の果てへ、文字通り飛ぶことになったのだ。
 
 栄口はふっと目を伏せる。
 
 それは唐突で、驚愕で、そして栄口にとってはチャンスでもあった。
 今の現状。
 阿部との、今の関係。
 示される好意を突き放すことも受け入れることも出来ない自分。
 
 卑怯なのは百も承知だ。
 
 それでも現状を維持していくことがお互いにとっていいことだとはどうしても思えなかったから。
 
 この部屋を出る。
 
 その決意は決めた後もひどく胸の奥を揺さぶった。
 考えるだけで鼻がツンとして、今でも心が沈む。
 
 ―――でも。 
 
「痩せたな」
「ひぁっ!!」
 
物思いに沈んでいた栄口の真後ろから唐突に声はかかって、あまりの動揺に変な声が出てしまった。驚いて後ろを振り返ろうとするがその前にサーバーを持つ方の手に阿部の手が重ねられて、びくりと体全体が震えた。
 
「表面張力でもためしてンの」
「あ…」
 
阿部の手の目的に気づいてバツの悪い思いにかられる。マグカップになみなみ注がれたコーヒーの表面は飲み会で無理やり入れられたビール並みに綺麗なカーブを描いていた。
 
「なに考えてたんだよ」
 
阿部は目的を遂げた後も手を離そうとしない。それどころか逆に距離を詰めて来さえして、最後にはほとんど後ろから抱かれているような形になってしまって栄口は途惑う。
 かといってきつく抱き締めてくるわけではなかった。それは彼が最後の決定権を自分に任せている証拠で、そのことが余計に、いつも栄口を居たたまれない心持ちにさせる。
 
「阿部…」
 
言わなければ、と握られていない方の手を強くタイルに押し付けた。
 
「なに」
 
耳の後ろに吐息がかかってびくりと体が震えたその反動を利用した。勢い良く後ろを振り返る。思ったよりもずっと近くにある顔に一瞬ひるむ自分を叱咤して、
 
「オレ、ロスに異動になった。明日ここを出る」
 
一番言いたいことだけなんとか言い切った。思わず俯いてしまったくらいは自分を許してやりたい。奥歯を食いしばる。二の句は継げない。この期に及んで阿部からの言葉を待っている自分に心底嫌気が差す。
 
 阿部は何も言わなかった。
 当たり前かもしれない。
 
 どんな罵倒も受け取らなければいけないと栄口は思った。
 阿部が今までかけてきてくれた言葉、向けてくれた感情、すべてをあやふやにして逃げようとしている自分。
 
 ごめん、だなんて言うのもおこがましい。
 
「お前さァ」
「っ」
 
しかし阿部の第一声は、あまりにも予想とかけ離れた思いがけず優しい音で、栄口は反射的に顔を上げてしまった。
 
 驚いた。
 驚いたことに、阿部は笑っていた。
 
「馬鹿だろ」
「え?」
「お前オレのことなんも分かってねェ」
「……?」
「本気でオレから逃げる気なら、今言うべきじゃなかったな」
「!」
 
ハッとしたときには既に両の手をタイルに押し付けられていて。
 
「………!!」
 
栄口は慄く。ぞっとするような微笑を浮かべた阿部の顔がすぐそこに、あると思ったときには目の前が阿部の黒が勝った瞳でいっぱいになっている。手の甲は強い力で平面に縫い付けられて、体は阿部の逞しい体躯にまるまるロックされて、相手の唇によって押さえつけられた口からは吐息しか逃げることが出来ない。
 
「まァどっちみち逃がさねェけど」
「っはッ」
 
さんざん唇を懐柔された栄口は急すぎる展開と酸素不足で頭が朦朧としそうだった。
 
「あ、べ」
「大体お前本気で逃げる気あんの?」
「…っ!」
 
そんなの、あるに決まってる。
 
 栄口はキッと阿部を睨みつけた。ロス行きを言い渡されたとき、どんなに愕然としたか知りもしないくせに。ひとがどんな思いで秘密裏に手続きを済ませたと思ってるんだ。本気で阿部と離れる決意をするのに、どれだけ……!!
 
 言葉にならない想いが込み上げてきて涙が出そうで栄口は悔しい。目の端に勝手に沸いて出てくる水分を止めたくてたまらないのに止められない。
 ぽろりと、とうとう肌を滑り落ちたしずくを待っていたかのように阿部は舌で掬い取った。ぬめる感触が頬の下から上に滑ってゆくのを栄口は為すがままにして、唇だけきつく引き結ぶ。
 
 しかしそれすら懐柔するように阿部の唇が再び、引き結ばれた境をなぞるように辿るから栄口の目尻からは涙がぽろぽろと零れ落ちてしまうのだった。
 
「さわ、るなっ」
「聞こえねェ」
「あべっ!」
「じゃあなんで泣いてんだよ」
 
口と口がくっつきそうな距離で尋ねられて、答えられなくて口を噤む。阿部は満足したようにすっと重心を落とした。彼の目線が10センチほど下がる。
 
「嫌なら本気で抵抗しろ」
「………」
 
上目遣いでこちらを見たまま挑発してくる阿部は、そのまま鎖骨の下の辺りに近づいて肌を吸った。ザッと立つ鳥肌が嫌悪からではないことを栄口は分かっている。分かっているからたまらない。
 そっと、ようやく離れた阿部の手が栄口の胸元に一直線に伸びてワイシャツのボタンを外しにかかる。ひとつふたつ、と上から順に外されて左右に分けられていくシャツの前。それと同時に下へ下へと降りてゆく阿部の口付け。
 
「……ッ!」
 
とても嫌がっているとは思えない吐息が自らの口を衝いて出そうになって必死で飲み込む。栄口は真っ赤になって体を強張らせるが相手は容赦しなかった。見上げてくる瞳に宿る本気が顔を逸らすことをさえ許さない。
 
 ちう、と鎖骨のすぐ下を一際きつく吸ってうすらと口角が上がった。
 
「しねェなら止めねー」
 
自由になった両手で、それでも。阿部の行為を止めることが栄口は出来なかった。
 
 
 なぞられる肌。
 与えられる熱。
 
 暴かれる。
 
 その表現がまさしく相応しい、阿部の行為に栄口はただ翻弄された。
 恐ろしかった。
 阿部の手は栄口の体ごと栄口自身を暴いていって、阿部の口は栄口の心を心底震えさせたから。
 
 ―――逃がさねェ。
 
 阿部のくれる言葉はいつも本音だ。
 
 ―――オレのもんになっちまえよ。
 
 いつだってその想いは真摯に自分に向けられていた。
 
 ―――栄口。
 
 彼が自分を呼んでくれる声。
 見つめてくる眼差し。
 
 ―――くだらねーこと考えてねェで、オレだけ見てろ。
 
 知っていた、本当は。
 
 ―――阿部……ッ
 
 吐きだしたのはきっと、自分の中の嘘の方。
 
 曝け出されたそれさえ阿部は当たり前のように受け取るから。
 だから、栄口は、出口が真正面にしかなかったことを、ようやく悟ったのだった。
 
 
 
 
 
***
 
 
 
 
 
 コポコポ、コポコポ
 コーヒーメーカーから聞こえてくる2度目の呑気な音がようやく止んだので空のマグカップに再びなみなみコーヒーを注ぐ。栄口は自分用に牛乳を注ぎ足して、取っ手を持ってダイニングテーブルに移動した。
 阿部の目の前にひとつ置いて、向かい側に向かおうとしたら腕を掴まれた。新聞に目を向けたままのくせにやすやすと片手だけで栄口を腕の中に閉じ込めた阿部は、そのまま器用にドリップしたてのコーヒーに口をつけた。
 
 脇の横に阿部の顔があるし、腰には阿部の手が回されている。恥ずかしいことこの上ないが正直に言ってしまえば座席につくことの方が難しい状態だった栄口は仕方なく両手で自分用のマグを包み込んだ。
 
 ミルク交じりのまろやかな香ばしさが鼻腔をくすぐる。喉を過ぎて腹に落ちていく温かさにほっとした。
 
「で?」
「え?」
 
しかしそれもつかの間のことだった。気づけば阿部が新聞から目を離してこちらを見上げていて、ついさっきまで見ていたのは栄口の方だったはずなのにいつの間にか逆転している。
 相手の伺いに返す相槌が分からなくて首を傾げると、阿部は呆れを隠そうともしない表情を向けてきた。いや、どちらかというとひとを軽く子馬鹿にしているような顔だ。
 
「部屋はもう決めてあんのかよ」
「部屋?」
「だから、出ンだろ、ここ」
「あ…」
 
栄口はカップを持ったまま固まってしまった。
 
「えー、と…勝手にごめ、」
「別にいーけど」
「……あべ、」
「どうせまだ部屋なんか決まってねェんだろ」
「うん…」
 
勝手に部屋を出る手続きをしたことを阿部は謝らせてくれる気はないようだった。
 
「しょうがねェからオレが探しといてやるよ。どうせ向こう行ってからしばらくは泊まり込みなんだろ」
「ええ?!そんな、さすがにそこまで迷惑かけらんないよ」
「いーって。どうせオフだし」
 
つい先月今年のシーズンが終わった阿部は、確かに渦中のような忙しい身ではない。多くのアスリートにとって冬は次への準備期間だ。とは言え来シーズンのためにやるべきことは多くあるはずで、自分のために貴重な時間を割かせるわけにはいかなかった。
 
「見つかんないうちはオフィスかホテルに泊まるしさ、大丈夫」
「ホテル暮らしは性に合わねェんだよ」
「いや、阿部じゃなくてオレのこと……」
 
ん?と、そこまで言って栄口は口をつぐむ。何かがおかしい。会話が噛み合ってない気がする。
 
「!」
 
突如嫌な予感が頭を掠めて阿部を見ると、そこには待ってましたといわんばかりに口角を嫌味にあげた、意地悪な上目遣いがあって。
 
「………あ、べ」
「ちょうど声かかってンだよ。そっちからもな」
 
絶句する。二の句が継げない。開いた口が塞がらない。もう、この際なんでもいい。この時の栄口の心境を言い表せる言葉などこの世にはない。
 
「どっちに行こうか決めかねてたからちょうどいい」
「!おまっ、」
「栄口、お前にオレの決定に口挟む権利なんかねェよ」
 
挟もうとしていた先をスパンッと切られて栄口は今度こそ二の句が継げなかった。
 
 阿部は本気だ。
 そして本気になった阿部を自分ではとても止められない。栄口はそれをよく知っていた。
 
 黙りこんだ相手を満足そうに見遣って阿部は、ニィ、といかにも彼らしい表情を、何も知らないファンにクールと称される甘いマスクの上に載せた。
 
「お前さァ」
 
見上げてくる凶悪な笑みに、駆け上がる背筋の悪寒はおそらく意志と言うよりは本能的なものだ。
 
「本気でオレから逃げられるって思ってたのかよ?」
「…………」
 
栄口は思い出す。阿部が昔試合でよくしていた顔。何手もの先を読んでゲームを支配した頼れる西浦の正捕手が勝利の片鱗を掴んだときに見せるあの不敵な表情。
 年月を経て、場所が変わって、それでも、彼の顔に浮かぶのはあの時と少しも変わらない。
 
「っふ」
 
栄口は可笑しくなってしまった。目の前の男は見た目には十分に成長した大人で、腕の逞しさだって申し分ないしマイナーながらあちこちから黄色い声が上がるくらいには精悍な顔つきだってしているのに。
 
 この眼差しの、少年のような一途さ。
 
 そんな目で一直線に見つめてくるのだから阿部は本当に、ズルイ。
 
 くすくすと笑い出した栄口に阿部は、何笑ってンだよと不機嫌な声を出すが怒っているわけではないことが自分を引き寄せてくる腕のやさしさで分かった。
 無理をさせた自覚があるのか、あくまで緩く腰に絡めてくる阿部の手がゆっくりと背骨の下を押す。
 
 近づく互いの距離。
 
 けれどももはや逃げる必要性をどこにも感じなくて、栄口は、斜め下にある阿部の頭を自ら引き寄せてそのままそっと、抱き締めた。