冬のかげろう
いつまでもブサイクな顔してんじゃねェよ。
そう言ったのに、やっぱり似合いもしない引き攣った笑顔なんかを浮かべてくるから。 だから彼がとるべき行動はたったひとつしか残されていなかった。
ガタガタ窓ガラスを揺らす音に安眠を妨害されて、泉がふと目を覚ましたのは昼休みも半ばを過ぎ、空腹を満たしたクラスの食べ盛りたちがようやく落ち着いてきた頃合だった。
だからそれはまったくの偶然だ。
一瞬自分がどこにいるか分からない寝起き特有の感覚を持て余した泉の脳は、とっかかりを探して目線を彷徨わせて、見慣れた頭にたどり着いてようやく焦点を結ぶ。 いつだって短いままの、特に前髪が常に眉上にある、そうしてそれが意外なほどよく似合う、冬の最中でさえ温かみを感じる薄い色合い。
つまりは栄口の頭である。
ぼんやりと相手の存在を頭の中で反芻して、そのまま全体像を広げていく。形の良い額。実は男らしい眉毛。少しだけ面長の輪郭。 で、それを合わせてみれば西浦野球部名物、老若男女に受けの良い穏やかな面差しになる。
――――筈なのだけれど。
「………」
またか、と泉は内心で悪態をついた。視線の先を目で追って確認した事実は予想通りで大きな目がすっと眇められる。相手に目線を戻せば、手で顔の下半分を覆って机に肘をつく栄口はこちらの様子に気付いた素振りもない。
先程から耳障りなくらいガラスを叩く木枯らしにさえどうせ目の前の男は気付いちゃいない。 寝起きの首を左右に振って泉は肩をまわした。窓際の陽のよく当たる席といえど、起きたばかりの身はぶるりと背筋が震えるくらいには寒い。窓を揺らす音を聞くだに外の気温が知れるというものだ。
けれど頓着はしなかった。
次の瞬間、ガラ、と開け放たれた窓から容赦なく寒風が教室内に吹き込んで来て何人かが悲鳴を上げる。
「泉!さみーだろ!」 「閉めろー!」 「うっせーな。換気してんだよ」
直接抗議してくる輩もいるが、一蹴して取り合ってなんかやらないで泉は窓際の一番風のあたる場所で冷気に顔をさらす。あーくそさみーと胸のうちで吐き捨てるけれど、おかげで目的は達成されたようだった。
「……泉、寒い」
つい先程まで頬杖をついて窓の外に目を向けていた栄口は横目で睨むようにして抗議してくる。栄口と泉は前と後ろで、机を半分ずつ分け合って差し向かいに座っているから一瞬のうちに凍えてしまいそうな冷風はもちろん目の前の栄口にも襲いかかっていた。髪が短くて素肌がさらされている分、栄口の方が被害は大きいかもしれない。 責めるような視線をこちらもちらりと見遣って、おもむろに窓のサッシに手をかけてカラカラと引く。泉だって真冬の風にいつまでもあたっていたいと思うような酔狂ではない。
「お前がいつまでもブサイクな顔してっからだろ」 「なっ!!」
しれっと暴言を吐けば、相手は盛大に顔をしかめて面白い顔を見せてくる。それに泉が満足したのもつかの間のことで、栄口はすぐに何かに気付いたように素の顔に戻ってこちらを見つめたまま所在なさげに瞳を瞬かせた。心当たりがないでもないといった風情だろう。相手の逡巡が手に取るように分かるけれど、それを慮ってやる気はもうない。
「阿部となんかあった?」 「……」
栄口には唐突に思えるのかもしれない指摘に彼は一瞬、瞬きを止めた。けれど泉にしてみればそれはタイミングの問題だった。
西浦野球部の副主将である阿部と栄口は仲が良い。 仲が良すぎやしないか、なんて一時期一部で騒がれたくらいには彼らは馬が合うようで、泉も性格が違い過ぎるのが逆にうまくハマったのかもしれないくらいに思っていた。
先輩のいない部活にとって彼らと主将である花井の存在はとても大きく、それは2年になってより比重を増した。
泉には後悔がある。 その重荷はきっと、彼らだけが背負うべきものではなかった。
「なんで?」 「……」
今度は泉が黙る番だった。
阿部と栄口の関係の変化を感じ取ったのは最近のことじゃない。 ただ、これと分かるほどにはっきりしたものではなかったから確信は持てずにいた。 部のことはしっかり切り盛りしていたし、よく話もしているようだったから傍目には1年の頃と少しも変わりないように見える。確かに何も変わっていないように見えるけれど。
「栄口、さっき阿部見てたよな?」
問いに問いで返すのは卑怯だとは思うが、彼のなんで、に対して泉が持つ答えは、その先にある。
泉の問いかけに栄口は一度、目を伏せてしかしすぐに眼差しはこちらに戻った。顎を支える彼の指が1本、ぴくりと動いた。
「見てたっていうか、外見てたら阿部がいたから。それに阿部だけ見てたわけじゃないよ。花井もいたし」 「そ。なに、喧嘩でもした?」
いい訳のように付け足される内容には触れないで泉は畳み掛ける。
「そんなんじゃないよ」 「そーか?でもなんか最近ちょっと変な感じじゃね。喧嘩してんならオレが阿部ンこと殴っとこーか?」 「ぶっ。泉ちょっとそれひどくね?」
なんでか阿部が悪いことになってるし、と堪らず噴き出す栄口に、十中八九阿部が悪いだろなんて軽口を叩くと、横暴だと声を立てて彼は笑った。
「でもまァ、今回は2割の方かもな」 「?」 「だって阿部もお前とおんなじ顔してるし」
窓の外を見遣る。2人の教室から見える渡り廊下を行き交うたくさんの生徒たち。そつなく防寒着を着こんでいる者、薄着で両腕を抱え込むようにしながら小走りに行き過ぎる者、今日は風が強いようで彼らの髪やらスカートの端やらがなびくさまがよく見える。その中に見知った顔はもうなかった。
「ふたり揃っていつまでもブサイクな顔してんじゃねェよ」
相手と同じように頬づえをついて、目だけを上向けて抗議する。ぼうっとこちらを見ているように思えた栄口は、やがて困ったような観念したようなていで少しだけ眉根を寄せた。
「……泉って、ときどき分かりにくいよ」 「うっせー」 「だいたい阿部にブサイクって、それこそ逆に殴られるんじゃないの」 「ンな簡単に殴られてなんかやんねーし」
つまらなさそうにだらしなく机の上に腕を伸ばすと、ふ、とその上で栄口が微笑う気配がした。
―――だからなんかあったら言えよ。
「確かに泉なら、一発殴ってすっきり終わらせられそうだな」
そう言おうと思って開いた口を、栄口の独り言のような呟きに遮られてしまうから、先程取り込んだ風のせいで冷えたままの机の表面に頬をつけて、泉は黙って目を閉じた。 |