秋のしずく
そうやって彼はいつも彼を見ていた。 去年も、その前の年も、時に嬉しそうに時に苦しそうに。様々な表情を普段穏やかなその顔に浮かべて、栄口はいつだって阿部を見ていた。
そしてそんな風に阿部を見る栄口を、花井は何度も目にしていた。
秋。 近々行なわれる文化祭準備のため、校内は俄かに慌しくなってきていた。学校が動き出す時間が普段よりも早くなり、静まり返る時間が遅くなった。夏の暑さが鳴りを潜めた校舎の中を生徒たちのいつにない熱気が駆け巡る。
窓辺にたたずむ栄口を花井が見かけたのは偶然だった。栄口、とつい呼びかけてしまってから花井はすぐに後悔した。一拍置いてこちらを振り向いた栄口が何をしていたのかを、彼は勘付いてしまったからだ。
理由があるわけじゃない。 ただ、彼が纏う雰囲気。
―――そう、雰囲気。
振り返った栄口は花井と目が合った瞬間に瞳に意識を灯し、すぐににこりと笑ったけれど、その一瞬前の、瞬きの間ほどのまに感じ取った感覚を花井は逃しはしなかった。
言葉には出来ない。 ただそのとき彼の全身から発される何か。 それは、時折目にすることがあったもので、彼の表情はその時々によって違っていたけれど、根底を流れるものは同じであるような気が花井はしている。
そしてそういうときの栄口には、いつもぞくりと花井の背筋を駆けさせる何かがあり。 そしてそのときの彼の目の届くだろう範囲に、いつも阿部の姿があった。
そう感じてしまうのはもしかしたら彼らの間にある秘密を自分が知っているからかも知れないと花井は思う。というよりむしろ、ただの憶測だったそれを確信に変えたものこそが栄口の阿部への視線だった。
ひたむきに向けられる温度の低い熱のような視線。 そんなものを向けられたらさぞかし。さぞかし――――、
「花井?」
思ったよりも近くから聞こえた声に、知らず知らず近づいていた距離を知らされてハッとする。栄口はぼんやりとしているように見える花井を不思議そうに見ていた。
「わりぃ、ちょっとボーッとしてた」 「あはは、珍しいね。勉強のし過ぎとか?花井はそんな焦ってやんなくても大丈夫だって」
声を上げて笑う栄口からは先程の感覚を感じ取ることはもう出来なくてそれは花井を心底ほっとさせた。普段通りの彼ならばなんの気兼ねもなく接することが出来る。
「3年間を野球に捧げた代償はでけェからなァ」 「そだね。オレ、田島と三橋が受験する必要なくなってほんとよかったと思うもん」 「それは全員思ってるな…」
野球の神様には愛されたけれど、勉強の神様を振り向きもしなかった2人のチームメイトを思い出し、少々げんなりしながら花井は栄口の隣に並んだ。
3年の教室が並ぶ3階の廊下からは中庭がよく見渡せる。芝生は季節を問わず青々と茂っているが、その周りを覆い囲むように植えてある木々の葉はところどころ色を秋の装いに塗り替えつつあった。 普段から生徒たちに頻繁に利用されている中庭は、今は文化祭準備の屋代と化していて終業時間も過ぎているというのに結構な数の生徒で賑わっている。 逆に教室側はというと、ほとんどの生徒が出払っていて廊下を通る者も数人といった具合だった。クラスによっては教室内に閉じこもって作業をしているところもあるのかもしれないが。
溢れる喧騒が3階の窓辺にまで聞こえてくる騒々しい中庭の端に見慣れた姿を見つけて、やっぱりな、と花井は思う。
Tシャツにジャージ姿の阿部が木材のようなものをのこぎりで切っている。時折首にかけてあるタオルで額の汗を拭っては大きな木の板と格闘していた。そろそろ夏の名残も消え去った頃合だというのに暑そうだ。
「花井はやんなくていいの?」
花井が阿部を見ていることに気づいたのか、栄口が尋ねてくる。
「あいつ裏方担当だからな。オレは当日休みナシで働くことになってっからってクラスの奴らに追い返された」 「そっちって何やるんだっけ?」 「お化け屋敷」 「ベタだねー」 「うるせー」
なんてとりとめのないことを話しながら2人して窓の外を眺めていると当の阿部にクラスの女が近寄って来たのが目に入る。花井は内心で、あ、と眉を潜める。 そのクラスメイトは何事か阿部に話しかけて彼の首に巻かれているタオルを手に取った。阿部は作業をやめない。そんな彼にお構いなしでタオルの端で彼女は相手の額や頬をそっと拭う。阿部はそれでも手を止めないどころか見向きすらしない。 果敢にも、彼女は阿部に話しかけ続けているようだが、阿部の方はほとんど口を開いていないようにも見える。
それは教室でもよく見かけた光景で、よくまあそんなにあからさまな態度が取れるものだと花井などは思っていたが、好意を向けられる側である阿部は一向に気にも留めていない様子だった。 その理由であるところの栄口本人が、今、隣にいる。クラス内とは違って居住まいの悪さを感じずにはいられない。
「なんつーか、あからさまだよなァ」
なんて、つい、上手い言葉も浮かばないまま話題を振ってしまった。栄口はそうだねと頷いて、
「にしても阿部のあの態度はないよなあ」
困ったように笑ったようだった。
しばらく2人がどうなるかをデバガメ状態で観察する羽目になって、花井は居心地の悪さを感じたまま、男2人、窓枠に寄りかかってささやき合う。
栄口は、普通だった。 あまりにも普通なので花井の方が妙に饒舌になってしまい、そんな自分を滑稽にすら思えてきたころ。
「お」 「あ」
行儀悪く高みの見物をしていた2人の口から同時に声が漏れる。阿部のつれなさにしびれを切らしたのか、とうとう彼女はポンポン、と彼の背中を叩いて去ってしまった。 最後の気安い様子からいって彼を諦めたわけではないようだ。あそこまで見込みのない相手に向かっていく少女に拍手すら贈りたくなるが、それは多分に同情を含んでいることを花井自身分かった上で、である。
彼女に万に一つの可能性もないのだろうことを花井は知っている。
去って行ったクラスメイトを気にかけるでもない阿部を見下ろして花井は知らず胸を撫で下ろした。何となく、栄口が今どんな顔をしているかが気になって隣を見る。
「!」
彼は大きく目を見開いていた。え、とその彼の表情に驚いてしまう。一点を見下ろして彼は微動だにしない。その視線の先にいる人物は言うまでもなくて、つられて視線を中庭に戻した。
阿部がこちらを見ていた。
阿部は、栄口を見ていた。
じ、と花井の隣にいる栄口を見ていた阿部はふいと視線を外してのこぎりを地面に置いた。そうして彼はそのまま中庭から見えなくなる。
「……?」 「花井」
なんだ?とその行動を疑問に思ったとき、隣に名を呼ばれた。
「花井、オレ行くね」 「お?おお」
急な申し出に少し驚いたけれど彼は至って自然に窓辺を離れて、じゃあまたと手を上げる。
「そーいや栄口んとこは何やるんだ?」
思いついて去り際の彼に聞くと、栄口はちょっと嫌そうに眉を寄せる。
「………メイド喫茶」 「ンだそれ!どっちがベタなんだっつーの。なに、もしかしてお前もメイド?」 「そんなわけないだろ。オレはウェイター」 「つまんねェ」 「他人事だと思ってさあ。そこまで言うなら当日来てよね」 「だからオレは当日休みないんだよ。心配しなくても代わりに阿部行かせっから、」
花井はそのとき、自分の失言にすぐに気づいた。
「………」
栄口はたいして表情を変えないままこちらを見ていたけれど、花井は明らかにしまった、という顔をしていて。そしてそれを自分で分かってもいた。
「……あー」
言葉を探す。彼らの秘密を知っていることを知られるのは2人だけの領域を暴いてしまうことのようで、避けたかったのだ。けれどこういう時に上手く誤魔化せるほど花井は器用な男ではなかった。
「…うん、花井」
出て来ない言葉を掬い取るかのように栄口の口が動く。彼はそっと花井を見上げた。
「ありがとう」 「………」
花井は分かってしまった。じゃーなと今度こそ背を向けた彼の後姿を呆と見遣る。ジャージの上に彼がよく着るボーダーのポロシャツという出で立ちの後姿が廊下を曲がって見えなくなる。
(……知ってたのか)
その言葉を彼は言うつもりはなかったのだろう。けれどもしかしたらずっと言いたいと思ってくれていたのかもしれない。
窓枠に背を預ける。 胸のうちに去来する感情を花井はすぐには整理することが出来ないでいた。
(知ってたんだな、栄口)
何に対してのありがとうなのか、心当たりがありすぎる自分に少し笑えた。
彼らをずっと見てきた。 2人が共に在った日々、そしてそうではなくなった日々。 阿部と栄口のふたりきりの距離が縮み、離れたことを花井だけが知っていたのだ。おそらく、何が彼らをそうさせたのかも。
だから夏が終わって、すべてが終わって、それから始まるものがあっても良いと思った。
あるべきだと。
幾つもの重荷を下ろした今ならばきっと、と。
思ったことは真実だし、取った行動に後悔なんてない。
(やっぱアイツらつるんでねェとしっくりこねェからな)
それでもそれを。 或いはひとは恋と呼んだかもしれなかったけれど。 |