背中合わせの距離感

 

 部活後、部誌を書くのは副主将の仕事だ。

 西浦高校野球部は今年軟式から硬式に昇格したばかりで、1年生しかいない新米チームである。ゆえにその仕事には当然ながら1年坊主が就いている。

 

「栄口、終わったか?」

 

その1人である阿部隆也は、同じくもう1人の副主将である栄口勇人に声をかけた。このチームには主将が1人と、副主将が2人いる。しかし部員は10程度という、いかにも出来たてほやほやのチームなのだ。

 

「んー、もう少し。阿部の方は?」

「こっちは終わった。さっさとシガポのとこに持って行って帰るぞ」

「だね」

 

ボール磨きを終わらせた阿部は部室の端に硬球が大量に入った段ボール箱を移動させてから、机の上でカリカリと丁寧に空欄を埋めていく栄口の手元を見遣った。

 男にしては珍しい綺麗な字が紙の上いっぱいに埋まっている。近づいてひょいと彼の背後から覗きこむと、うわ、と栄口は声を上げた。

 

「びっくりした。阿部、無言で近づくなよ」

「お前って字、綺麗だな」

「そうかな。普通だと思うけど」

 

栄口の苦情を軽く無視して率直な感想を述べると、阿部のそんな対応に慣れている相手は手を止めないままに律儀に返答をする。カリカリカリとペンシルの芯が紙をこする音が2人以外誰もいなくなった部室の中に響く。いまだ汗と熱気の残像が部屋のそこかしこに残っていた。

 

「んな丁寧に書くから時間かかんだよ」

「うるさいな。性分なんだから仕方ないだろ」

 

軽口を交わす間にも栄口の手は忙しなく動いていて、ついでに言えば彼の視線は部誌に向けられっぱなしでさっきからちらりともこちらを見ようとしない。

 阿部の方はその分じっくりと栄口を観察することが出来た。

 

 見た目よりも柔らかな短い髪は触ると心地よく、その中でも特に短い前髪とおでこをひそかに阿部は気に入っていたりする。

 つり目なのにくりくりとよく動く瞳は小動物を連想させた。

 顔から首筋のラインにかけての健康的な陽の焼け方は運動部員らしくて好ましい。

 陽に焼けない部分の肌は逆にとても白いことを、合宿や部活後の着替えなどで何度も目にしている阿部は知っている。無論、それは阿部だけに限られた特権ではないけれど。

 

「………」

 

これだけ見つめても副主将のお仕事に夢中な栄口は気づかない。集中力があるのは良いことだけれど、それが仇になることもあると彼は知ったほうが良い、などと勝手な理屈を胸のうちで並べながら阿部はそうっと動いた。

 

かぷ。

 

「!!!」

 

無防備な耳たぶを戯れのように噛んでやったらさすがに驚いてこちらを向いた。ガタガタと机が揺れる派手な音がした。

 

「なっ、」

 

ペンシルを持っていない方の手で耳を押さえ、口をパクパクさせて目を真ん丸に見開く彼のさまを阿部は満足そうに見返す。

 

「な、に……すんだよ…」

「なんかうまそうだったから」

「はあ?」

 

信じられない、と栄口はほとんど記入の終わっている部誌に突っ伏して唸り声を上げた。

 

「なんだようまそうって。田島並に意味不明だよ…」

「田島ならいいのかよ」

「そうじゃなくって。もー、なんなんだよ阿部」

「わかんねーか?」

「え?」

「ならいい」

「なにそれ」

 

答えを握っている阿部が与えようとしない問答は不毛に終わる。強引に話を切り上げた阿部を、それでも栄口はため息ひとつついただけで許してしまう。

 そういう人の良さが、つけいる隙を与えるのだと阿部は思うがそんな彼だからこそ自分もこんな思いを抱えてしまうのだと知っているから、結局は五分だよな、なんて自分勝手な結論を導き出して再び最後の仕上げに入った栄口の背中にトンと寄りかかった。

 

「阿部?」

「早くしろよ。今日は俺が鍵閉め当番なんだからな」

「ああ、やっておくよ?」

「ばぁか。手、動かせ」

 

束の間止まった栄口の手が、ゆっくりと動き出すのを背中越しに感じた。

 

「あんがと」

 

ふっと吐息が零れるように声が聞こえてカリカリと書くスピードが上がる。阿部には栄口が今どんな顔をしているかが分かる気がした。ジャージのポケットから鍵を取り出して手持ち無沙汰にくるくるとまわす。

 

(…落ち着けよ、情けねぇ)

 

背中の後ろで阿部が天を仰いだことを、栄口はまだ知らない。