泰は暖かく、そして豊かな国だった。
きょろきょろと物珍しそうに周りを見回す鈴を、夕暉は守るように身の後ろに隠しながら市井の中を歩く。
しばらく左右に首を回していた鈴が、微笑みのような困ったような顔で夕暉を上目遣いに見てきた。
「……とても活気があるわね。まだ、隆洽まで随分とあるのに。それにとても暖かい」
「そうだね」
彼女が何を思っているのか、夕暉には手に取るように分かった。
なぜなら夕暉も同じようなことを考えていたからだ。
先日出立した慶国の首都堯天はここに負けず劣らず活気のある、良い街だ。
しかし堯天を離れるごとに慶の街は貧困と悲しみに沈んでいく。
それでも先王が完膚なきまでに荒廃させた慶の土地は、少しずつではあるが無論回復してきている。
しかし、それでもまだ十年も経っていない。六百年の治世を誇る泰と比べてもどうにもならない。
もちろん分かっているけれど、目の当たりにするにはその差はあまりにも大きいものだった。
鈴もそれを分かっているのか、夕暉の顔を見てゆっくりと首を振る。
「そんな顔するものじゃないわ。慶は良い国よ、夕暉。すくなくともとっても良くなってる。
だって陽子は素晴らしい王だもの。きっとこれから、もっともっと素敵な国になるわ。
泰ももちろん良い国だけど、比べる必要なんか全然ない。私は慶が好きよ。今の慶も、これからの慶も」
先ほどの複雑な笑みを払拭するかのような凛々しい笑顔を見せて鈴は言った。
夕暉も頷いた。
彼女のその、前向きな心根が好きだと夕暉は思った。
「ところで、厩のある宿を探さないと、ちょっと目立ちすぎているみたいだね」
夕暉は改めて自然と心に浮かんだ想いを打ち消すかのように僅かにおどけた口調で言う。
先ほどから道ゆく人々の視線が痛い。
「そうね、さすがに騶虞は泰でも珍しいみたい」
鈴も苦笑を返す。
いかに豊かな泰と言えど、騶虞ほどの騎獣に乗れる者はまずいない。
黒と白の縞に長い尾が特徴的なこの騎獣は一国を治めるほどの存在でなければ手に入れられないのだ。
そんな大事なものをぽんと渡してしまう辺り、陽子の豪快さと彼女がどれほど鈴を大切に思っているかがうかがい知れて、夕暉は旅立ちの前に行われた会合――あれは間違いなく会合だったと夕暉は思っている――を思い出して自分を戒める。
鈴のためにも王のためにも、必ず無事にこの旅を終える。
官吏にもなっていない自分に親友と大役を任せてくれた彼女に、それは唯一報いる術だった。
そして、他ならぬ夕暉自身のためにも。
「とは言っても、もう少し大きな街に行かないと無理かもしれないわね」
夕暉の誓いなど無論知るはずもない鈴が、困った顔で見上げてきた。
心配そうな彼女を安心させるように夕暉はにこりと笑って言葉を返す。
「そうだね。いっそ隆洽にまで一気に飛んでしまおうか?」
泰国の首都を口にした夕暉に、鈴が頷こうとしたときだった。
「やあ、もしかして、鈴じゃないか?」
突然の呼びかけに驚いたのは呼ばれた鈴だけではない。
ふたりは話の内容も忘れて、がばりと声のした方を振り返る。そうして再び、驚きに目を見開く。
「………っ、」
「待って、鈴」
思わず声を上げてしまいそうになる鈴に、相手はすうっと流れるような動作で彼女の目の前に立ち、人差し指でその唇を塞ぐ。
その行動に三度驚いた夕暉とは別に、鈴は合点がいったのかこくこくと顔を上下した。
彼女は思わず、彼の号を呼びそうになったのだ。
「……利広さま、どうしてここに?」
「利広で良いといっているのに、つれないな鈴は」
「からかわないでください!どうしてこんなところにいらっしゃるんですか?」
「それは私こそ聞きたいな。ここは泰だよ。鈴より私がいる方がずっと道理が通っている」
確かにそのとおりだった。
鈴は利広に、ここまでのいきさつを話して聞かせた。
「なるほど、じゃあ隣にいる彼も慶を救った立役者のひとりなんだね」
「そうです、夕暉と言うんです」
大方の話を聞き終わった利広が突然夕暉に話を振る。
嬉しそうに頷く鈴とは対照的に、夕暉は不審半分、戸惑い半分に頭を下げた。
「夕暉、こちらは利広さま。宗太子であらせられるの」
「!」
あまりの驚きに息をのむ夕暉に、利広は困ったように笑う。
「太子といっても今の私はただの風来坊だから、あまり気にしないで欲しい」
難しい要求をしてくる利広に、夕暉は幾らか動揺しながらも一応、はい、と頷き返した。
「ところで、どうやら何か困っているように見受けられるのだけれど?」
「ええ、と…」
「鈴、遠慮しないで言ってくれないか」
包み込むかのような笑顔に後押しされて鈴は口を開く。
「ええ、と、ですね。この辺りに厩のある宿をご存知ないですか?どうやら私たち、目立ってしまっているみたいで…」
「だろうね。騶虞を連れた旅人なんてそうそういないからね。実は私が鈴を見つけたのも、その騶虞が目立っていたからだよ」
そう言って利広は笑いながら、ふたりを促す。
「行こう。宿まで私が案内するよ」
利広のありがたい申し出に、鈴はお礼を述べて何度も頭を下げる。
そしてそんな彼女に気にするなと笑う利広を見て、夕暉はまた彼も同様に頭を下げながら、どこか自分でも掴みづらい複雑な思いに駆られていた。