才国に行きたい、と鈴が言いだしたのは寒さが随分と緩んできた頃の、特に暖かな日だった。
赤楽王朝は七年目を迎え、慶国はいよいよ活気に満ちていた。
景王陽子が一も二もなく是、と応えたのは、働き者の女御が本当はずっとその願いを抱いていたことを知っていたからだ。
けれど慶国は動乱の時代が続いた故に貧しく、かつ、人手が致命的に足りていなかった。
優秀な女御である鈴を一定期間でも手放す余裕がいろいろな意味で全くなかったのである。
無論、七年程度の年月が過ぎたくらいでは、慶国の状況が一八〇度転換しているというはずもない。
しかし途上の状態ではあっても、目を瞠るほどの発展を遂げているのもまた事実であった。
だから普段決して無理を言わない鈴が、自分の我侭を承知で申し出るほどの願いを、ぜひとも聞いてやりたいと王は思ったのである。
彼女は言った。
「才国とも、本格的に国交を深める良い機会だと思う。鈴、慶の国士として行って貰っても構わない?」
せっかくの旅を仕事にしてしまって申し訳ないけど、と付け足す陽子に鈴はぶんぶんと首を振る。
「そんな、こんな我侭を受け入れてくれるだけでもありがたいもの。でも、私なんかが慶の代表として才に赴いていいのかしら…」
戸惑いを見せる鈴を陽子はカラカラと一笑に伏した。
「そんなの、いいに決まっている。ぜひ鈴に行って欲しいんだ」
「……陽子」
王にそこまで言われては鈴とて否と言えるはずがない。
そしてその後、にやりと笑んで彼女が付け足してきた条件に対しても、迂闊にも鈴は特に何も考えずに了解したのだった。
***
雲海の上を渡るのは初めてではないが、いつでも鈴はその美しさに目を奪われてしまう。
彼女の生まれた蓬莱は、海と雲は対になることはあっても決して互いに接するものではあり得なかった。
しかしこちらの世界では雲の上に海が存在する。
それは雲海と言う。
あちらの海と同じようにさざ波が立ったり波間が光ったりする、まさしく海だ。
百年以上をこちらで過ごしても、生まれた地の光景を鈴が忘れることはない。
なぜかは分からないが、胸の奥にしかと刻まれているのである。
鈴は陽子にもそれを感じるときがある。
しかし、彼女たちが共に蓬莱を懐かしむことはほとんどなくなっていた。
「鈴、寒くはない?」
つらつらと考えを巡らせていた鈴の後ろから青年の声がかかる。
はっと、鈴は騎獣の上に乗っているのが自分ひとりではないことに思い当たって、若干慌てた。
「え、ええ。大丈夫。夕暉は?」
「僕も大丈夫だよ。もうすぐ泰に入る筈だから、きっと下は暖かいくらいだろうね」
「そうね」
言ってちらりと後ろを見ると、にこりと夕暉が笑いかけてきたので鈴も微笑み返した。
そう、景王陽子が出した条件とは、鈴の供に夕暉を付けるということだった。
それには彼女の微笑ましい企みがあったりするのだが、鈴はというと学生である夕暉に頼むほど金波宮は人手が足りなかったのだと、自分の我侭の畏れ多さにひたすら恐縮してしまった。
夕暉の大学が休みである時期を見計らって、陽子は首尾よくもろもろを整えた。
鈴の仕事を調整し、才と書簡を交わし、二人の旅支度など、なぜか彼女がほとんど用意したようなものだ。
当事者以上に意気込む陽子を鈴は不思議そうに、祥瓊は笑いを必死でこらえながら見守った。
「そろそろ下りるよ」
「分かったわ」
告げると同時に夕暉の腕がきゅっと鈴を守るように包む。
騎獣が上昇したり下降したりして何らかの衝撃が体にかかるときは、夕暉が鈴をこうして後ろから抱きすくめるのが当たり前になっていた。
最初は少し驚いたけれど、今では安堵を感じている。
出会った頃とは違う逞しい腕に守られながら、鈴は供に旅をするのが夕暉で良かったと、どこかくすぐったいような気持ちで、けれど真摯に、思っていた。