―――何だかおかしなことになってしまった。

 

潮の匂いが鼻腔をくすぐる、なんとも立派なテラスの白い手すりの前で鈴は困ったように佇んでいた。

その身は常にはないほど着飾られ、普段ならばさらりと流しているだけの髪も丁寧に結わえられている。

一国の官吏であるとはいえ、鈴はどちらかというと質素な身なりのほうが多い。

華美を好まない己の主上と同様に鈴も動きやすい服の方が好きだからだ。

 

しかし現時点、慶国の女御であるはずの鈴がいるのは金波宮ですらない。

 

「………あの」

 

鈴は思い切って、目の前の美丈夫に向かって口を開いた。

男は顎を少しだけ上向けて続きを促す。その顔にはいかにも楽しげな笑みが乗っていた。

 

「なぜこちらに?延王」

「なんだ、鈴は俺がいては邪魔か?」

 

延王、と呼ばれた男は紛れもなく鈴が現在身を置いているテラスの、持ち主である。

更にいえばここ、雁州国の王であり、鈴の主、慶東国王である陽子とはどの国よりも誼があると言っていい。

 

その延王尚隆に言葉を返されて鈴はぶんぶんと首を振る。

 

「そ、そんなことは…。ただ、ご政務でお忙しいのではないかと…」

 

言いながら鈴もそれが適切な返しではないと分かっていた。

雁の主上と麒麟の政務に対する態度は、慶国の女御にも知れるくらいには有名だった。

 

案の定、尚隆は必死に言葉を紡ぐ鈴を豪快に笑い飛ばした。

 

「なるほど、それが事実ならうちの官吏は諸手を挙げて喜ぶだろうな」

 

言って楽しそうに笑い続ける相手に、鈴は曖昧な笑みを見せる。

正直に言うと、雁の官吏にすこしだけ同情の念すら浮かびそうだった。

 

「なに、景王気に入りの女御殿と少し話をしてみたかったのだ。気にするな。

他国の女御と話をする機会などそうないしな。六太も鈴を気に入っているようだったし、興が沸いたのだ」

「はあ……」

 

言って満足そうな笑みを見せる隣国の王に、何と答えればよいのやら鈴は分からなかった。

確かに陽子は鈴と祥瓊とは他の官吏に対するよりも気安く接する。

三人は互いの身分を知る前からの友人だからだ。

 

そして延麒は頻繁に金波宮に出入りする際、蓬莱出身である鈴をよく気にかけてくれる。

あちらに対しての懐古を未だ捨てきれない自分を気遣ってくれるのだろうと鈴は思っていた。

 

延麒を思い出して、そういえば、と鈴は王を仰ぎ見た。

 

「延麒は今こちらにいらっしゃるのですか?」

「ん?あれは今俺の代わりに朱衡にでも捕まっているのではないか?」

「まあ」

 

一国の王の発言とは思えない台詞に鈴はいささか呆れた表情をみせる。

 

「駄目ですよ、延王。六太君にばかりまかせたら!」

 

鈴がついそう言うと、尚隆は一瞬驚いた顔をして、そしてすぐに顔をほころばせた。

 

「なるほど、さすがに蓬莱出身の女子は気が強い」

「まあ!」

 

にやりと笑ってからかう尚隆に、鈴は怒りとも羞恥ともつかぬ気持ちがしてさっと頬を染めた。

 

「なに、褒め言葉だ、鈴。それより鈴は六太を名前で呼んでいるのか?」

「え?あ、はい。申し訳ありません、一国の麒麟に対してそんな気安い呼び方…」

 

しかしうまく話題を変える尚隆に、一気に鈴の様子は畏まる態度に変わる。

慌てて頭を下げてくる少女に少年の風貌に金の髪を持つ麒麟の主は首を振った。

 

「気にするな。あいつも名前で呼んでくれる者が増えて嬉しいだろう。

俺としてもあれをからかうネタが出来て嬉しい限りだ」

「………あんまりいじめないでくださいね、六太君のこと」

「そうかそうか、では鈴が代わりに俺と遊んでくれるか?」

「え?」

 

予想外の尚隆の言葉に鈴が思わず間の抜けた声で聞き返すと、尚隆はポン、とわざとらしく膝を打った。

 

「そうだ鈴、慶の女御などやめて雁の女御になるというのはどうだ?」

「はあ?」

「そうすれば俺もまじめに政務をこなすと…」

「延王!!」

 

話の急展開についていけない鈴をいいことに、尚隆はとんでもない提案を持ちかけ始めるが。

しかしそれを皆まで言う前に王の声は怒気を含んだ凛とした声によって遮られた。

 

「夕暉!」

 

声の方を向いた鈴は、驚いて大きな声を上げた。

尚隆はというと新鋭の登場にむしろ楽しそうに口角を上げている。

 

かつかつと二人のもとに大股で歩み寄ってきた青年は、まず鈴に向かって頭を下げた。

 

「慶の女御殿におかれましては、我が王の戯れにお付き合いいただき感謝いたします」

 

そしてすぐに王を向いて、

 

「朱衡様が鬼の形相で探していらっしゃいました」

「ぐ、」

「早々に戻られたほうがよろしいかと存じます、たま」

 

そう告げたかと思うと、連れてきていた騶虞を呼んで王の前に差し出す。

淡々としつつも用意周到な夕暉の手際に尚隆は苦笑した。

 

「なるほど、いかにも朱衡が気に入りそうだな。仕方ない、機嫌を取りにいくとするか。夕暉」

「はい」

「鈴の相手を頼んだ。……まあ、もともとお前の客だがな。

では鈴、またな。景王にもよろしく伝えておいてくれ」

「はい、わかりました」

 

鈴と夕暉が並んで頭を下げると、希代の名君と謳われる延王尚隆は颯爽と騎獣にまたがい。

あっという間に雲海の上に姿を消した。

 

 

 

***

 

 

 

「…………はあ」

 

王の後姿を見送って、鈴は安堵とも感嘆ともつかない息をはく。

 

「……鈴」

 

夕暉の方はといえば明らかなため息をついて、白い手すりにトンと背中を押し付けた。

その背中の向こうには常人では見ることすらできない白い雲の波が打ち寄せていた。

 

「どうしてここに?」

「あら、陽子から聞いてない?」

 

夕暉が首を横に振ると、まあ、陽子ったら、と呟いて鈴は夕暉にいきさつを話し出した。

 

曰く、

雁の官吏である夕暉に虎嘯からの届け物をする際、大抵は延麒がそれを引き受けてくれる。

本来ならば有りえないことではあるが、如何せん雁の主従と景王陽子はその辺が実に融通が利く。

というよりは、ぞんざいなのである。

夕暉は虎嘯からの品を延麒から受け取るたび、頭の痛い思いをしているのだ。

 

しかし今回は陽子の「たまには他の人が届けにいってもいいんじゃないか」

という提案で、それならばやはり虎嘯が行くべきだということに一度はなったらしいのだが。

陽子の身の回りの警護を事実上一手に引き受けている大僕である彼が抜けるのはまずい、と。

 

「それでね、虎嘯が無理なら私でってことになったみたい」

「……そう」

 

黙って鈴の話を聞いていた夕暉には、金波宮で交わされた様々なやりとりが目に見えるようだった。

鈴が良く分からないままこの場にいることからも、殆ど強引にその役を任されたことが伺える。

 

夕暉自身、自分の気持ちが周りに知られているのだろうなという自覚もあった。

しかしこのあからさまな状況に疑問を抱かないあたりが、鈴の鈴たる所以とでもいうべきところだろうか。

 

それにしても金波宮の面々も余計な気を回すくらいなら延王対策もしておいて欲しいと夕暉は思う。

もし本当に鈴が延に引き抜かれたら、その痛手は想像もつかない。

もちろん夕暉だって鈴が延に行くという選択肢を選ぶとは思っていない。

しかし仮に延王が本当に望めば、それは或いは有りえないとは言いきれないかもしれないのだ。

 

延王尚隆という男は、それほど夕暉にとっては計り知れない存在だった。

 

「はあ」

 

もはやどの気持ちから出ているのかも分からないため息をついてから夕暉は改めて鈴の方を向いた。

 

「来てくれてありがとう、鈴」

「うん。本当は虎嘯が来れれば良かったんだけど、ごめんね?」

「そんなことないよ。鈴が来てくれて、嬉しい」

「ほんと?よかった」

 

夕暉の言葉に嬉しそうに微笑む鈴を見ていると、さっきまで心にあった色々なことが消えていくようだった。

久しぶりに会った鈴は、結わえられた髪や装飾を施された着物のせいか、大人びて見える。

おそらく延国に出向く慶国の官吏、という立場を取らされたため女官たちに良い様に着飾られたのだろう。

 

慶国の女王は華美を好まないため、女官はいささか退屈気味だ。

彼女たちがここぞとばかりに鈴を仕立て上げていく様子が夕暉には容易に想像できた。

 

しかし今回ばかりはその女官たちを責めるわけにもいかない。

 

「髪を上げている鈴なんて初めて見たな」

「そう?そうね、いつもはそのまま流しているものね」

「とても似合ってるよ」

「ありがとう」

 

それとなさを装った褒め言葉に、素直に喜びをあらわす鈴を夕暉は可愛いと思う。

実際、女官によって念入りに着飾られた鈴は華々しいほどに美しかった。

普段の質素でやんわりとした鈴も可愛いが、こうやって女性らしさを前面に出した鈴も実に魅力的だ。

見とれてしまいそうになる自分に苦笑しながら、夕暉は鈴に尋ねた。

 

「みんな元気にしている?」

「ええ、国も随分と活気に満ちてきたし、みんな張り切ってるわよ。夕暉はどう?」

「毎日必死だよ。でも、本当に勉強になる。雁の官吏が有名なのがよく分かるよ」

 

二人はお互いの近況や周りの人たちのことを、随分と長い間語り合った。

思えば夕暉が慶を離れてから長い間が経過していた。

 

「夕暉はもう、立派な雁の官吏なのね」

 

ひとしきり話した後、鈴が呟いた。

その響きには誇らしさと寂しさが滲んでいるように夕暉には思われた。

 

夕暉は一度鈴から視線を外して雲海を見やる。

雲の海の上に、月が輝いている。

下に雲がある以上、白い影に隠れることなく月は二人を照らしていた。

 

一度深く息を吸って、吐いた。

そして再び鈴に向き直る。

 

「鈴」

「なあに?」

「僕は雁でたくさん学んだけれど、もう少しこちらにいなければいけないみたいだ」

「………?」

 

夕暉の遠まわしな言い方が何を意味するか分からず、鈴は少し首を傾ける。

 

「でも、僕の国が慶だということ忘れたわけじゃないよ」

「ええ、もちろんよ。あなたは慶の民だわ」

「うん、だから僕はいずれ慶に帰る」

「え?」

 

驚いた鈴に、夕暉は悪戯っぽく笑う。

 

「ひどいな、僕がもう慶に帰らないと思ってた?」

「そんなことはないけど…」

「もともと慶の官吏になるために、雁で学んでるんだよ」

「そうだったの?」

 

そう、と夕暉は力強く頷いた。

夕暉が雁の大学を出てこの国の官吏になったのは、慶に帰ったときに役立つだろうと考えたからだ。

 

随分と落ち着いて来たとはいえ、慶は未だ波乱の国で金波宮の中も完全な状態とはとてもいえない。

だからそのまま慶の大学を出て官吏になるよりも、まずは雁で学んでおきたいと思ったのだった。

その方が、陽子の役にも立てるだろうと。

 

「僕はもっといろいろなことを学んで、必ず慶に帰るよ、だから」

 

そっと、夕暉は鈴の手を取った。

鈴は不思議そうな顔をしながらも夕暉の手を緩く握り返してくる。

 

「それまで待っていて、鈴」

「ええ。待ってるわ。もちろんよ。慶があなたの帰る場所だもの」

 

ぎゅっと夕暉の手を握って優しく笑いかけてくる鈴に、たまらず夕暉はその手を引いた。

 

「………え?」

「鈴、きっと待っていて。必ず迎えにいくから」

 

ぎゅうと抱きしめてくる夕暉の、男らしい体に鈴は少しの戸惑いを覚える。

大学を卒業してからすぐ官吏になったものの、その間に夕暉は十分に成長していた。

無論出会った頃の少年ではない。

 

今更ながら、鈴はその事実に思い当たるような心持ちがした。

 

「ええ」

 

その大きな背中に腕を廻しながら鈴もこたえる。

今の二人の状況は何か特別なことのような感じもした。

が、このときの鈴はまだそれについて深く考える術を持たなかった。

ただ、きつく自分の体をしばる青年に。

 

「ええ、待っているわ、夕暉」

 

限りなく優しく、ゆっくりと、ささやいた。