目が覚めたのはその夜がとても冷え込んだためだった。
北の国ほどではないが、慶の冬も寒い。
しかしその寒い中臥牀を抜け出したのは、何かの予感を感じたからかもしれない。
客房の中はしんとした冷気に満ちていて思わず体をぶるりと震わせる。
が、構わず夕暉は襖を羽織って客房を出た。
***
客堂に足を踏み入れる前から人の気配は感じていた。
しかし中に入っても、暗闇が邪魔をして誰の姿も見つけることができない。
それでも夕暉は確信をもって口を開く。
「鈴?」
「っ」
すると息を呑む音が目の前から聞こえた。
やはり、と思うと同時にその予想外の距離の近さに夕暉も僅かに動揺する。
「どうしたの?」
「………なぜここにいるの?」
それでも冷静を装って発された問いは、問いによって返される。
夕暉は苦笑した。
なぜ、と言われても答えを持ってはいなかった。
「……なんとなく」
仕方がないので正直に答える。いや、正確には何となく鈴がここにいる気がしたからだった。
でなければこの凍えるほどの寒さの中をわざわざ臥牀から出てきたりはしない。
しかしそれを伝える気は彼にはない。
鈴は不思議そうな顔で夕暉を見るが、それ以上問いただしたりはしなかった。
それを見えないままに感じた夕暉は、問いを変えた。
「眠れないの?」
「すこし」
「寒くない?」
「寒いわ」
ふわり、と何かあたたかいもので鈴の体が包まれる。
着心地が良いとはおせじにもいえないが、温かいそれは人のぬくもりを感じさせた。
「だめよ、夕暉が寒いでしょう」
それが、夕暉が今まで着ていたものだと気づいて、鈴は襖を脱ごうとするが。
「いいんだ、鈴が羽織っていて」
夕暉の手がそれを制した。
夕暉に風邪を引かせるわけにはいかないと思い、鈴は再度拒もうとするが夕暉も頑として譲らない。
しばらくの間押し問答が続いた。
互いに引くに引けなくなったとき、しかし夕暉が「わかったよ」とため息をついた。
「まったく鈴は頑固だよね」
言ってくすりと笑う夕暉に鈴は、幼子扱いをされているような気分になって憮然とする。
しかし夕暉の言うことはもっともであり、実際折れてもらった手前何も言えない。
それでも悔しくて、少し声を荒げた。
「だって、夕暉に風邪を引いてほしくないの!さ、早く着て!」
ほとんど怒ったように乱暴な仕草で襖を脱ごうとするがしかし、それは思いもよらず遮られた。
「!」
はっと、鈴の体が硬直する。一瞬何が起こったか分からなかった。
分からなかったが、とにかく暗闇の中、相手の姿形も見えぬまま。
ただ、人のぬくもりに包まれる感触が鈴を襲っていた。
何がなんだかわからないと鈴は思う。なぜか鼓動が早くなって寒いはずなのに唐突に熱が出たように熱い。
まとまらない思考の中、それでも何とか、ひとつの事実に行き当たることが出来た。
―――――鈴は、夕暉に抱きしめられていたのだ。
驚きのあまり二の句を告げない腕の中の少女に夕暉は笑った。
彼女の愛らしさに、そして自分自身に。暗闇は人を大胆にするようだ。
「こうしていれば温かいから、だからやっぱり鈴が着ててよ」
鈴の思考が動き出さないのをいいことに、先手を打つ。
言われた鈴は、わけが分からないながらも夕暉が風邪を引かないならばそれでいい。
と思い、こくこくと首を上下に振った。
***
「あたたかい?」
「……ええ」
常よりずっと近くから聞こえる声に、居心地の悪さを感じながらも鈴は答える。
妙なことになってしまった、と実のところ戸惑っていた。
当の夕暉はそんな鈴の心境を知ってか知らずか、束縛を解こうとする素振りもない。
それどころかむしろ徐々に力がこもっていっている気さえする。
「寒いの?」
「鈴がいるからあたたかいよ」
強く締め付けてくるので寒いのだろうか、と心配するが、夕暉の答えはどこか的外れだ。
どうにも相手の行動の意味を計りかねていると、またすぐ近くから声がして少しだけ力が緩む。
「どうして、こんなところにひとりでいたの?」
「………」
夕暉の問いに、鈴はすぐに答えることが出来なかった。
そして悶々と考えていた今までの思考はそれによって霧散されてしまう。
鈴の頭の中は、もはや別のことでいっぱいになってしまっていた。
夕暉が来るまで、ひとりで考えていたことに。
なかなか口を開こうとしない鈴を、夕暉は辛抱強く待った。
無理に問い質そうと思ったわけではもともとないし、言いたくないなら強制はしたくない。
そう思って、努めて声音を和らげた。
「無理にいうことなんかないよ。ただこんなに寒いところにひとりでいたから気になって」
夕暉の言葉に鈴は再び逡巡しているようだったが、やがてぽそりと声を漏らす。
「……こわかったの」
「こわい?」
呟かれた言葉は思いもよらないもので、思わず夕暉は繰り返す。
そう、と頷いて鈴はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「私、夕暉と虎嘯がやることなんだから、今回のこと、なんとかなると思ってたの。
でも本当はそんな簡単なことじゃないんだって、わかった。みんな、そんなこと思ってないってわかった。
……もちろん今でも、一緒に昇紘を討ちたいって思ってる。私は清秀の敵を取りたい。
そして、なによりあんな奴を野放しにしておくわけにはいかないって」
そこで鈴は一度言葉を切った。
まるで口にすることを恐れているように、鈴の体が細かく震える。
「でも、私、みんなを失うのが怖い。夕暉を、虎嘯を、仲間のみんなを、清秀みたいに…………」
失ったらどうしようと思ってしまって。
と、ほとんどささやくような声で呟く鈴に。たまらず夕暉はまわしている腕にぎゅっと力をこめた。
鈴はわずかに驚くが、先ほどのように混乱はしなかった。むしろ安堵を感じている。
夕暉の腕は未だ成長段階の少年の腕ではあったのだけれども、鈴はそれを心強いと思った。
やがて夕暉がしずかに言う。
「大丈夫、だなんてことは言ってあげられない。確かに僕たちのやろうとしていることは無謀なんだ」
そして少しだけ眉根をひそめて笑う。
「実際昇紘を討てるかもわからないし、討ったところで生き残れる可能性は高くない。
―――でもね、指をくわえて黙っているのが嫌なら、立つしかない。兄さんみたいにね」
こくり、と鈴も頷く。
距離が近いせいもあるだろうか。夕暉の言いたいことが何となく伝わってくるような気がする。
虎嘯と夕暉は、やはり根本的に同じ考えなのではないかと鈴は感じた。
「ごめんなさい。子供みたいなこと言って」
「そんなことないよ。僕だって鈴や兄さんや、仲間連中を失うのが怖くないわけじゃない」
「そうね」
大切な人を失うのがこわくない人間なんていない。
でもやるべきことがある。やらなければならないことがある。そして何をおいてもそれを成し遂げたい。
そう思っている。
「鈴」
「なあに?」
声をかけると腕のなかの少女は少しだけ身じろいだ。
夕暉は思う。
彼女の不安はもっともだ。
鈴は、自分たちとは違う。
弟のような少年の仇を討つために仲間になった彼女。
鈴にとって、自分たちの状況は本来ならば関係のないことのはずだ。
昇紘を討ちたい気持ちは無論あるだろうが、それでも夕暉はときどき思う。
彼女を、自分たちの都合で巻き込んでしまったのではないだろうかと。
彼女に「逃げてもいい」と言ったことがあった。名残惜しくはあったが、本気だった。
けれど鈴は「逃げない」と言ってくれた。
自分たちがどれだけ危険な橋を渡ろうとしているか、それを理解した上で、だ。
その言葉にどれだけ安堵したか、嬉しかったか、鈴は知らないだろう。
彼女のことを思うなら、無理にでも突き放した方がいいことは夕暉自身分かっている。
けれどもう、手放せないことも。
「逃げないでくれてありがとう」
さまざまな思いを込めて鈴を抱き締める。
言いたいことのほとんどは伝わっていないだろうけれど。
鈴は、いつもとはどことなく違う様子の夕暉に首を傾げるけれど、すぐに微笑んで頷いた。
「あたたかいわね」
「うん」
耳がつんとするほどの寒さのなか、二人は互いの温かさを感じていた。
顔の判別もつかないほどの闇のなか、相手の生きている証を確かめるように。