拓峰の寂れた界隈での生活はそれなりに忙しい。

虎嘯のように頻繁に出たりするわけではないので、もっぱら雑用が主な仕事ではあるのだが。

しかし事実上宿を仕切っているのは夕暉であり、義民の参謀のような役割を果たしているのも彼である。

厨房番の腕も良いため食事時はそれなりに繁盛する。

宿を切り盛りするのは簡単ではないが、夕暉の才はなかなかのものだった。

 

午の慌しさが過ぎ、おおかたの食器を洗い終えた夕暉は、回廊を進む途中で足を止めた。

こじんまりとした客房の中、佇む人影を見つけてしまったからだ。

 

常ならば軽く声をかけるのだが夕暉はそうしなかった。

その立ち姿から、鈴が何を考えているかを推し量ってしまえた自分に、何ともいえない気分になる。

そっと、客房のそでから中をうかがった。

 

長い黒髪を無造作に後ろで縛った、首筋から肩にかけてかかる後れ毛。

華奢な体はどこか儚げな雰囲気の彼女を一層頼りなく見せてしまう。

それでも背筋はぴんと伸びていて、前を向いた顔と大きな瞳は凛としている。

はじめて見たときは思わずはっと息を呑んだ。

普段の彼女が見せない風情がそこにはあった。

 

せいしゅう

 

唇のみがかたどった少年の名前に胸が締め付けられる。

瞳に視線を移すが、はじめの頃は見受けられた涙もいまはない。

 

鈴がどれだけ共に旅をした少年を大事にしていたのかを夕暉はよく知っている。

それは家族に向けるような愛情で、初めて自分という人間を受け入れてくれた安堵に似たものでもあるだろう。

だからこそ、夕暉は自身の感情を持て余してしまう。

 

夕暉自身が彼と面識があるわけでもなく、かの少年と出会う前の鈴を知っているわけでもない。

彼が死なずにいたらきっと自分たちが会うことはなかっただろう。

彼が死なずにいたら彼らはいずれ姉と弟のような関係ではなくなっていたのかもしれない。

しかしその仮定が意味のないことだということも理解している。

 

少年は死んでしまった。

 

彼は鈴を残していってしまった。

そして自分は鈴に出会い、彼女をただの仲間の少女だと思えなくなってしまった。

 

けれど彼女は、未だ彼を忘れていない。

そしてきっとこれからも忘れないだろう。

時が経っても、時折こうしてひとり彼を思い佇むのだろう。

 

その姿をひどく美しいと思ってしまう自分に夕暉は頭を抱えざるを得ない。

彼女の心を変わらず占め続けるのであろう少年に対して募る嫉妬、わだかまり、羨望。

けれどそれだけではないから夕暉はとまどう。

鈴を、今の鈴に為さしめ、自分と彼女を出会わせてくれたように思える少年に感謝のような気持ちがわいてしまう。

そしてそんな相反する気持ちを抱えたまま自分は鈴を見つめるのだ。

いまさら、この感情を知らなかった自分には戻れないのだから。

 

「鈴」

 

静かに呼ぶと、はっとしたように鈴は振り向く。

 

「夕暉」

「行こう、ひと段落ついたから、僕たちも食事にしよう」

「ええ、わかったわ」

 

言って鈴は笑む。

余韻を引きずっているのか、その笑顔かやはり普段のものと同じではない。

 

夕暉は思う。

願わくば、その微笑みを見るのがいつも自分であるように。