今思えば、幻のようなひとだった。


少学の宿舎の一室で、徐々に闇に染まりつつある空を夕暉はぼんやりと眺めていた。

光がなりを潜め、濃紺に似た暗闇が周囲を染め上げていく。静かだ。


夕暉はこの瞬間が好きだった。

翌日に重要な試験が迫っている時でも、この時間だけは筆をおくことを心がけている。

いや、心がけずとも自然と気持ちが外に向いてしまうのだが。

 

そしてそれは、夕暉が自分に彼女のことを考えることを許している時間だった。

「鈴……」


ため息のように零れた名は、彼らの世界では珍しいものだ。

自分より100年も長く生きているのにまるで少女のようだった鈴。

どれほどの想いをその長い年月の間抱いてきたのか、夕暉には推し量ることしかできない。

 

しかし出会った頃の鈴と、共に在った短い日々の間での彼女の変貌を見れば。

その境遇がいかに少女にとって辛いものであったかは容易に計り知れた。


日が過ぎていくにつれ知らず彼女への気持ちが変貌したのも、必然であるような気が今ではしている。

100年という気の遠くなるような時間によって歪められてしまった性根が。

様々な出会いによって瞬く間に修正されたのだろう。

彼女がもつ元々の心根が表れてくるにつれ、夕暉が相手を見る目もいつの間にか変化してしまった。

「我ながら、今更だけど」

渦中にいた時には気づくことの出来なかった自分の気持ちの変遷を、鋭く分析しながら少年は自嘲する。

あの時分かったところでどうにかなったとも思わない。

それでもその存在は、今よりもずっと近くにあったはずだった。

かのひとが今在るのは、文字通り雲の上。
彼女といた数ヶ月は、今となっては夢か幻と大差ない。

自分が同じ雲の上の住人にならない限りは。

夕暉は分かっている。

この瑛州の少学で勉強できるという現実が、あの日々が幻でないことを如実に伝えていることを。

今はまだ端すら掴めていないけれど。
幻を掴むころには、彼女は素晴らしい人たちのもとでさらに魅力に拍車がかかっているだろうけど。

とりあえず今は。

「勉学に励むのみだな」

ひとつ、決意の息をはく。多少強引に視線を机上に戻し、夕暉は再び筆を握った。