風がそよぐ。

路亭の中を心地よい風が駆け抜けてゆく。

 

さわさわと頬が撫でられて、ふと鈴は顔をあげた。

膝の上に置かれた手の中でかさりと紙が音をたてた。

誰の見立てか知らないが、なかなかの趣味であると鈴にも理解できるような代物だ。

 

―――まったく夕暉もすみに置けない。

 

などと本人が聞いたら大きなため息が聞こえてきそうなことを少女は思う。

少女といってもその姿形とは裏腹に彼女は100年以上の時を生きている仙である。

 

大きな瞳と華奢な体つき、たおやかな黒髪はまさに少女の体ではある。

しかしあえて言えば、落ち着いた雰囲気とひどく穏やかな瞳がその事実を物語っているように思われた。

 

鈴は再び視線を落とす。

先の乱で、事実鈴を一重にも二重にも救ってくれた少年のひとり。

弟のように思うには大人びていて、友人というのもどこか正しくない。

やはり同胞、という言葉が今でも一番しっくりくる。

そんな、鈴にとってかけがえのない少年からの書簡は一定の周期で送られてくる。

 

少学での出来事を語るその文字を追うのが鈴は楽しみでならない。

決して楽ではないだろうが、書簡を通して伝わってくる夕暉の姿はとてもいきいきと鈴の瞼の裏に映る。

共に戦った日々にあった、凛としながらも悲壮感をにじませた姿はそこにはない。

年の割に随分と大人びていた、いや、大人のふりをしなければならなかった、あの日の少年。

その面影を書面から伺うことはなく、それを鈴は嬉しく思う。

 

きっと夕暉は以前とは別の形で正真正銘の男となるのだろう。

そのことは嬉しいような、少し寂しいような気持ちを鈴に起こさせるが、喜ばしいことに違いはなかった。

 

ゆっくりとかみ締めるように目を滑らせていた鈴は、また顔をあげた。

 

「……あら」

 

その顔に笑みが浮かぶ。

そよぐ風に乗って明るい声が聞こえてきた。

 

「祥瓊ね」

 

耳に飛び込んできた懐かしい旋律は出会った時に彼女が歌っていたものだ。

芳国公主であった頃よく奏でていたというその旋律は、今も彼女を苦しめるものでもある。

しかし祥瓊は意識的か無意識的にか、未だに時折その戒めを歌う。

彼女自身がそのことをどう感じているかは鈴には分からない。

ただ鈴はその歌が好きで、その歌を歌う祥瓊が好きだった。

 

以前それを素直に言ったことがある。

すると祥瓊はそのときひどく泣きそうな顔をして笑ったので、それ以来話題に出せずにいた。

 

鈴は目を閉じてだんだんと近づいてくる歌声に耳を澄ませた。

やはり、歌も祥瓊も好きだという結論に落ち着いた。

 

「あら、……鈴?」

 

ぴたりと音が止んで、代わりに祥瓊の済んだ声が降ってくる。

 

「なにしてるの?」

「ちょっと、休憩よ」

「それはちょうどよかったわ。私も文書に目を通しすぎて疲れてたの」

 

隣良い?と聞く祥瓊にもちろんよと鈴は答える。

数日ほどお互いとても忙しかったので、思えばこうやってゆっくり顔を合わせるのは久しぶりだ。

 

「そっちはどう?」

「ひと段落ついたという感じ。でなければこんなところでゆっくりなんてできないわ」

 

くすりと笑いながら黒髪の少女が言うと、紺青の髪をした美しい友人はそうよねと答える。

 

「こちらももう少しといったところよ。でもそのまえにちょっと休憩」

 

言っていたずらっ子のように肩をひょいと動かす祥瓊に鈴はくすくすと笑い、つられて祥瓊も笑う。

二人してしばらく笑いあった。

 

「あら、それ」

 

ふと、祥瓊が少し声音を変えて視線を動かした。

その視線を鈴も辿る。どうやら祥瓊は鈴の手元の紙に目を向けているようだ。

 

「ああ、これは…」

「夕暉ね」

 

鈴の言葉を遮った祥瓊の言は、質問ではなく確認だった。

不思議そうな顔をして相手を見ると、祥瓊がどことなく意味深な笑みをみせる。

 

「早速使ってくれたのね。贈った甲斐があるというものだわ」

「え、これ祥瓊が夕暉に?」

「そうよ。意外だった?」

「そういうわけじゃないけど。てっきり少学のいい人に選んでもらったものとばっかり」

「………少学のいい人?」

「そう。でもなるほど、趣味がいいはずだわ」

 

ひとり納得する鈴に祥瓊はなんともいえない視線を向ける。

 

「どうしたの?」

 

それに気づいた鈴が小首を傾げると、祥瓊はしばらく鈴をじっと見つめた。

――――しかし鈴の瞳に他意を見つけることは出来なかった。

仕方なく、いいえ、と首を振る。

 

「なんでもないわ。でも別に少学にいい人なんていないと思うわよ」

「そうかしら」

 

凛とした怜悧な表情が印象的な、かの少年を鈴は思い浮かべる。

仲間としての贔屓目を除いても顔立ちも知性も申し分ないと思うのだが。

でもそういえば、数多い書簡の中でもそんな話は一度もなかったように思う。

やはり慶は女が少ないからだろうか。

 

などとつらつらと考えを巡らせる鈴を、半ば呆れ顔で祥瓊は見ていた。

 

(……………まあ、気長にがんばりなさい、夕暉)

 

少しだけここにはいない漆黒の髪を持つ少年に同情を向ける。

けれど祥瓊だとて大事な友人を簡単に譲るつもりもないので、激励半分、叱咤半分、だ。

 

「さて、そろそろ行くわ」

「あら、もう?」

 

祥瓊の言葉に夕暉に向けられた鈴の思考はあっさりと彼女の友人に戻される。

それを嬉しいようなおかしいような、複雑な気持ちで受け止めながらにこりと笑う。

 

「私のほうはもうひとふんばりだから。これが終わったら陽子も一緒に、お茶でもしましょう」

「うん!楽しみね」

 

文字通り、花がほころぶように笑う鈴に祥瓊も満面の笑みを向けた。

 

やっぱりまだまだ、この可愛らしい友人を誰かに渡すわけにはいかないわ。

陽子と私の目が黒いうちは―――。

 

紺青の髪の少女がそう心に誓ったことなど、もちろん鈴は知る由もない。